■甲板からの眺め
日沈の時間に合わせて隅田川に行ってみたことがある。そこに辻さんの詩と同じ風景があるような気がしたのだ。押上駅からスカイツリーを背にして歩く。川までは歩いてすぐのはずだったが、向島の路地を歩き回っているうちに、あっさり迷子になってしまった。
(喫茶店に寄ってぶどうジュースなんか飲んでいたのが悪かったのだろうか。それにしても、老舗の喫茶店のマスターが辻さんを「知らないねえ」って一体どういうことだ? それにしても、まずい。これでは川で夕日をゆっくり眺めることができない。日没に間に合わないと、原稿が書けない。辻さんに申し訳がない……)
そんなよくわからない焦りで胸がいっぱいになった。
(でも、まあいいか。向島に寄っていたのだから、辻さんも許してくれるだろう)
ところで、辻さんの詩には「いろいろと間に合わない/たぶん間に合わないだろう」という切迫感と「間に合わなくたっていいじゃない/むしろ間に合わないものだよ」というゆるしの視線があると思う。相反する要素が両方ある、というのは、とても希少なことのように思う。
川は、全体が夕闇に包まれ、水面の様子はほとんどわからなかった。風はあたたかく湿っていた。滔々と流れる暗い川を眺めながら柵にもたれてコーヒーを飲んでいると、大きな船の甲板の上でひとり、海を眺めているような気分になる。川べりは、朝を待つ船の上のようだった。もしかして、辻少年はいつもこの場所で、想像上の甲板に乗っていたのではなかったか、と思った。
最後に暗誦するほど好きになった辻さんの詩(一部)をいくつか紹介したい。
(もしかして詩に意味なんて必要ないのかも)と思うくらい素敵な詩だ。純粋につぶやきたくなる、ポケットに入れて持ち歩きたくなる、そんな詩が辻さんの作品にはいくつもある。
辻さんの詩を読んでいると、ふと(そういえば、辻さんはどこにいるんだっけ)と思う。詩から溢れる親密なオーラのせいで、うまく不在が信じられない。どこかで辻さんが生きているような感覚になる。自分のすぐそばにいて、語りかけてくれている。そんな気持ちにさせてくれるのが、辻さんの詩のすごいところだ。
(きっと、どこかに)
いや、そんなはずはない。
(それでも)
と思う。
想像するのは自由だ。
もし、死んだあとも人の魂があるとして。
自分の好きなところに自由に行けたとしたら。
辻さんはきっと川べりにいる。
やはり隅田川かもしれないし、もっと水のきれいな賀茂川や石狩川、日本のどこか違う場所の川かもしれない。あるいはパリのセーヌ川、ロンドンのテームズ川かもしれない。半袖のポロシャツで、白い帽子なんかをかぶって。
辻さんは今もやさしいまなざしで、川を眺めている気がする。