■はじめに
3年前、私は結婚するのとほぼときを同じくして東東京に引っ越した。
電車に乗り、ふと窓を見やると、大きな川といくつもの橋が見えた。隅田川だ。そのときに私は「ああ、東京には川があったのか」と思った。
東京には海がない。海岸と呼べる海岸がない。
店も人も土地も何だかぎっしりつまっていて、そこにギチギチにお金やら情報やらがのっかっていて、とにかく空間に「抜け」がない。海辺の田舎育ちの私は「なんか息苦しいぞ」と思いながらどこかで諦めて、気づけば10年ほど東京で生きてきてしまった。でも、東京には川があったのだ。海がなくてつまらないところ、と思っていた私が迂闊だった。
東京には川がある。
同じように、と言うとおかしいが、辻さんの詩を初めて読んだとき、私は「ああ、詩の世界には辻さんがいたんだなあ」と思った。これもかなり迂闊だったと思うのだ。
詩の素人からすると、詩の世界というものは、はっきり言って敷居が高い(ように見える)。それは自分がろくに詩を読んできていないせいだ、ということは分かる。それでも難解な詩が多い印象のある現代詩の世界は、やはり非常に息苦しいし、生き苦しい(ように見える)。
しかし、辻さんの詩は全然息苦しくない。
川みたいだと思う。明るくて「抜け」があって、向こう側にもこちら側にもきちんと生活感があって、海と違ってそばを歩いていても急な波にさらわれるということもない。でも、潜っていくとずっと深くて、そこにきちんと死の匂いのようなものがある。不思議だ。
とはいえ、私はついこの間まで辻さんの詩をきちんと読んだことがなかった。
名前は知っていたが、読んだことはなかったのだ。
矢野顕子の「かぜのひきかた」の詩の作者だったっけな、
というくらいだ。
ちなみに、本棚には昔買った田村隆一と吉本隆明の詩集が2冊だけあるものの、数年分の埃が積もっている。
そんな、読まず嫌いで「詩知らず」の私が、なぜか辻さんについてとりとめもなく書こうとしている。そのきっかけは、義父だった。