本棚の詩人 第二冊 辺見庸 するどい眼の人が書く詩『生首』辺見庸 福島奈美子

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■詩集『生首』と私

足下のやわらかな土中で屍体たちが低くハミングしている。それぞれ半孵化の雛を口に銜えさせられたまま。ああ、半孵化の言葉たちよ。半孵化のうそたちよ。言葉に腐乱する屍体たちよ。それらが蒸れて埋まっている閾の森を、私は歩く。かかとでぐしゃぐしゃ顔を踏みつけて。閾の闇に降る垂線はいま、黒い気根のようだ。生えているのか。いや、それは天から垂れているのか。

「閾の葉」

すべての事後に、神が死んだのではない。すべての事後の虚に、悪魔がついに死にたえたのだ。
クレマチス。いまさら暗れまどうな。善というなら善、悪というなら悪なのである。それでよい。夕まし、浜辺でますます青む一輪の花。もう暗れまどうことはない。あれがクレマチスというならクレマチス。いや、テッセンというならテッセンでもよい。問題は、夕まぐれにほのかに揺れて、青をしたたらせるあの花のために、ただそれだけのために、他を殺せるか、みずからを殺せるか、だ。

「善魔論」

いくつかの神経系統が
すっかりいかれちまって
どうにも うまく泣けないのだ
けれども
よくよく注意すれば
喉のずいぶん奥あたりに
地虫みたいな音がたまって
どうやら
ジージー
泣いているらしいことに
気づいていただけるだろう
(中略)
きよらかな いかさまよ
やすからな寝息の
聖なる いかさま
朝までには
あたら想像をたやして
しっかりと食事をとる
すこやかな いかさま

「サプリメント」

私が辺見さんのブログで詩のようなものを見つけたのは、2007年か8年くらいだっただろうか。それらはあとで『生首』にまとめられた(ほかの書き下ろしも含む)が、当時、私はそれを「詩」だとは思っていなかったと思う。

ただ、きわめて重いイメージの言葉が並んでいた。

祈りでも、呪詛でも、ただのひとりごとでも、歌でもない。そこには、ただの悲しみとも怒りとも違う。それらは日をまたぐと少しずつ増え、そして、更新されていった。

葉。黒々と、闇の鱗のように、葉。すべてはことごとく葉である。夜の葉よ。謀(たばか)りの葉。不穏な葉よ。いきれる葉たちよ。偶景よりも、さらにもっととるにたりないもの。葉。夜の葉ずれよ。閾の夜の、幽けき葉ずれよ。神の葉。葉裏の殺意よ。葉陰の情欲よ。土中の屍体につもる、暗殺の葉。ああ、こんなに夜なのに、またどこかでツィーッと葉生えの気配。

「閾の葉」

「閾の葉」や「ズボズボ」「倒木」「残照」「入江」「画角」「halo」「顔屋」などは、携帯の小さな画面で読んだ。とくに「閾の葉」は夜の闇の中に連なる葉の森のイメージに強くひかれた。

携帯で何度も読んだせいだろうか、「蟹たちがはいのぼった樹は、失せかかった思い出のなかのクリスマスツリー」(「閾の葉」)や、「ズボズボはやがて死んだ」(「ズボズボ」)など、いくつかはフレーズで印象に残っている。

「クレマチス」「暗れまどうな」「夕まぐれ」(「善魔論」)といった言葉選びは、今読むと、明らかに韻を踏んでいるのだが、技巧をこらしているという気もしない。自然だ。遠くからひいて眺めたとき、有名な元ジャーナリストがこういう詩を書く、という事実もなかなか面白いように思う。

ただ、改めて読んでみると、普通の意味で「詩としてすばらしい」という印象じゃないのだ。本になったときも、中原賞を受賞したときも、「あれっていわゆる詩のカテゴリに入れられるようなものだったのか!」と思った。詩であるか、ないか、文章としてすぐれているか、いないかという以前に、そこには純粋に読まずにはいられない何かがあると思う。

私は、休日に起きて牛乳を飲みながら画面をリロードして、
(いったい、なんなんだろうな)
(この真っ暗な文章も、それを夢中で読んでいる自分もなんなんだろうな)
と思っていた。

仕事や遊んでいるとき、飲み会に行っているときは、忘れている。しかし、ひとりになり電車に乗ったときや帰り道、ふとしたときに、無性に読みたくなった。

リロードすると、たまに文末が変わったりした。まるで、生き物みたいだった。今、そこに言葉が生まれていた。画面のこちら側で、私はリアルタイムでの推敲を見ることができた。読む度に、お百度参りを覗き見ているような罪悪感が湧いた。

日を負うごとに文章はどんどん不穏になっていく。油断していると崖に足を踏み入れて落ちそうになる。そこにはただ、つねに言葉があり、目の前で生々しく息をしていた。

あいつはStefan Zweig (※注1)とラム酒と詩が好きだった。似非詩人と似非牧師たちはその後も労働歌と賛美歌とキミガヨを同じ口でうたいわけ(ウソモホウベンネ)、おもわせぶりな詩を書き、もっともらしい説教をしている。Stefan ZweigはS・Sよりとっくの昔にブラジルで自死し、無名詩人S・Sは東武東上線大山駅近くで自殺したことにされた。首チョンパー。ふん、だれがそんなことを信じるかい。面白いものだ。似非詩人たちと自称宗教家たちは自殺説をたくみな憂い顔で支持し、謀殺説を「あんな男を殺してだれが得するんですかあ?」といってケラケラ笑ったっけ。私は想った。世界中の下手な詩が得するよ。暗中飛躍の首チョンパー。

「閾の葉」
※注1
Stefan Zweig(シュテファン・ツヴァイク)はオーストリア生まれのユダヤ人の詩人、作家である。ふたつの世界大戦を経験し、ナチスが政権をふるった時代には彼の本は禁書、焚書になった。ユダヤ人排斥の運動が強まるとブラジルに亡命し、最期は自殺を遂げた。亡命の途上でも小説を書き、『チェスの話』『心の焦燥』などの作品を残している。

この「S・S」はおそらく実在の詩人だろう。おそろしかった。辺見さんの詩はしばしば不穏であり、過剰に警句的、挑発的であり、そこにはおよそ文芸らしくない要素も混じっている。それゆえに、読んでいて不愉快になる人もいるだろう。けれども、私はそこに、誠実さと切実さがあると思う。

誤りかもしれぬと承知で
なお深く くみしえたか。
その問いに幾たび
蒼ざめたか。
骨まで蒼ざめたか。

つまり
誤りのために
すべてを賭す気があったか。
言ったかぎりのことを
一身に負う気組みがあったのか。
殺(や)る気はあったのか。

「残照」

言葉を発するということは、瓶に入れて川に流す、みたいな行為に似ている。私たちは日々たくさん言葉を拾っているようだが、じつは拾ってなんかいない。ただ、流れるのを眺めているだけだ。ツイッターなどを見ていると、まさにタイム“ライン”、「川」だなあと思う。そうした言葉は、無数に流れてやがて散り散りになって、誰にも届かない、ということがしばしばある。

けれど、はっきり言えば思春期からインターネットが存在している世代にとって、おそらくそういう絶望はデフォルトなんじゃないかと思う。そういう絶望が「あたりまえ」になると、どうなるかというと。自然と、みんな自分の言葉に、あまり自分の身体を賭けなくなる(誰が悪いでもなく、それがある程度の現実なのではないかと思っている)。

そういう世界にあって、全身が賭けられている辺見さんの言葉はむしろ、異様なのだ。

言葉の刃が自分と相手の両方に向かっていて、すべての傷が共有されている。
「誠実」というのはつまり、そういうことなのだと思う。
時代の流れすべて逆行するような、世間的には愚かであると思われるような「誠実」さ。

文学的に重要な表現がある、とか、そこに含まれる主張に共感できる、とかではなく、辺見さんの詩は、まずその一点において、ずば抜けて面白く、強い。私は、ずっとその重さに魅せられていた。

しかし、同時に、それを実際に書いている人がいると思うと、やっぱり非常におそろしいのである。辺見さんの詩の魅力は、いつもそのおそろしさと一体だ。

私は辺見さんの詩を読みながら、いつも、細い細い糸の上を、ひとりで渡っている人を思い浮かべていた。なぜ落ちないのか、とても不思議だった。

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本棚の詩人

福島奈美子

第一冊「辻征夫」

1 我が家の辻さん

2 川辺の辻さん

第二冊「辺見庸」

するどい眼の人が書く詩『生首』辺見庸