本棚の詩人 第一冊 辻征夫(1)我が家の辻さん 福島奈美子

illustrated by ©Yuzuko

■隅田川のほとりで

青い羽の鳥が暗い木の枝から/水に突き刺さり魚をくわえて飛び立ったが/そのとき鋭い痛みを感じたのはぼくが/すでに川になっていたからだろうか

「そしてきみたちが寡黙な影となって」

辻さんの詩の中に「川」を扱った詩は多い。その原点は、もちろん隅田川だ。

 心にひとかけらの感傷も     大岡信

心にひとかけらの感傷も持たないやつが
    冬の隅田川を渡ってゆく
      愛もなく
        鳥もいない宇宙に向かって

  心にひとかけらの勇気も持たないやつが
    肺をタールでいっぱいにして
      子供の首を洗っている
        絶望的な夕陽の溢れる隅田川で

辻さんは上の詩について「(隅田川のまわりにあるものを)美しく苛烈に歌って余すところがない」と語った。

隅田川はもともと武蔵国(現在の東京・埼玉・神奈川)と下総国(千葉)の境界だった。江戸・明治時代は「大川」の名でひとびとに親しまれ、自然の残る左岸は「川向こう」と呼ばれていた(「向島」の地名はここから生まれたという説もある)。そして、辻さんが育った向島は、古くから春になると桜が咲き乱れる景勝地だったことから、花街として栄えた。

芥川龍之介が「大川の水」というエッセイの中で「銀灰色の靄と青い油のような川の水と、吐息のような覚束ない汽笛の音と石炭船の鳶色の三角帆と……」と書いているように、隅田川は、大正時代にはすでにきれいな川ではなかった。芥川も隅田川をこよなく愛したが「きれい」だから愛していたわけではないのである。

川を眺めるとき、私たちは「こちら側」に立って「向こう側」に別の世界があることを感じる。彼らが、子どものときから見て育った隅田川に、自分の人生そのものを重ねたことは想像に難くない。

東京大空襲があった1945年の12月。木造住宅が密集していた向島一帯は一斉に焼けた。逃げるところがなくなった人々が言問橋に押し寄せ、隅田川に飛び込んだという。

小学校にあがる前年の秋からその翌年昭和二十一年の隅田川の光景はいまも鮮明で、ぼくたちはその頃、一日に一度は遊びを中断して崩れかけた土手に坐り、川を眺めていた。川には、いつも十人前後の人が流れていて、ぼくたちはそれを、ひとーつ、ふたーつと数えていたのである。

「隅田川の水」

死体が流れていくある種すさまじい光景を、6歳の辻少年は日常にあらわれたひとつの風景として見ていた。今よりも真っ黒で汚れていたので、川で泳いだということはなかったようだ。野球をしていて、グローブを放り投げてうっかり隅田川に落っことしてしまい、パンツまで脱いでソロソロと入ったことはあったらしい。

生活と遊びの場であり、生死を含む存在であり、自分の過去と未来に思いを馳せる場所でもあり……。親しみやすいモチーフの中に、暗いイメージと明るいイメージがないまぜになって辻さんの詩は、やはりこの隅田川に原点があると思うのだ。


■川のまなざし

 川

ぼく すなわちきみの父は
隅田川のほとりでうまれ
きみの母は石狩川のほとりでうまれた
そしてある日(寒い寒い冬だったが)
きみがついにうまれてきたのは
ぼくの三十代の 暗闇で
二つの川が唐突に結びついたからだろう
むろんこれはこころの地理学だから
どんな「高等地図」にも
記されてはいないけれども

長く未刊だったものの『辻征夫 詩集成』(1996)に収録されたややマイナーな作品。詩を難しいと感じている人に教えてあげたくなるかわいい詩だ。「ぼく すなわちきみの父は」とあるように、辻さんの詩はバトンを手渡すように視点を次々と移動させることが多い。「川のほとりでうまれた」という人間の視点から「ぼくの三十代の 暗闇で二つの川が唐突に結びついた」というダイナミックな風景が表れる。カメラが切り替わり、最後にぱっと放される感覚が心地いい。

ときに冷たさすら感じるような辻さんの客観性は、川の向こう側からこちら側を見たときの「自分が居た世界がどこか異世界に思える」感覚から来ているのかもしれない。

※1 向島五丁目には「隅田公園少年野球場」という小さな野球場がある。日本で初めて作られた少年野球場らしく、レリーフが彫られた古い門には昭和の面影が残っていた。おそらく辻少年はここで野球をしていて、グローブを放り投げたのではないかと思う。

前へ 1・234 次へ

essay
本棚の詩人

福島奈美子

第一冊「辻征夫」

1 我が家の辻さん

2 川辺の辻さん

第二冊「辺見庸」

するどい眼の人が書く詩『生首』辺見庸