本棚の詩人 第一冊 辻征夫(1)我が家の辻さん 福島奈美子

illustrated by ©Yuzuko

■貨物船の思想

 河口眺望 S・H氏の銅版画

双眼鏡で遠くを見ていた
遠くには海が 海には巨大な貨物船が
ゆっくりと航行していたが
海が見たいわけではなかった
まして遠くを 遠くには夢が
などとばかげたことを思って
いるわけではなかった
ただ悲哀のネッカチーフを首に巻いて
あしたは崩れるにちがいない
瓦礫の堤防に立って遠くを見ていた

ここに出てくる「貨物船」は自分の姿であり、「海」は夢や理想の象徴のように思える。

「あしたは崩れるにちがいない/瓦礫の堤防立って遠くを見ていた」などの不吉なフレーズに表れている通り、「河口眺望」は自分の思い通りに生きられる世界を描いてはいない。貨物船=〈私〉の航海は「徒労に過ぎない」もののように見える。「悲哀のネッカチーフ」を巻いた〈私〉は「海が見たいわけではなかった」「まして遠くを 遠くには夢がなどとばかげたことを思っているわけではなかった」と続ける。「海に出るだけが川じゃない」とでも言いたげな〈私〉。

その消極的でひねくれた物言いは不思議な印象を残す。(現代のニートのようだ)と思った。

(これはニートのための抒情詩なのだ)

と、仮定してみると、この詩はまた違って見えてくる。〈私〉は「わけではなかった」と繰り返し否定することで、何かに対して誠実に抗っているようにも思えるのである。

ハーマン・メルヴィルの小説『バートルビー』には、究極のニートのような主人公が登場する。辻さんはロンドンに滞在した際に、この作品を映画で観ており、主人公に強くひきつけられている。主人公のバートルビーは仕事を頼まれるとすべて"I would prefer not to"(〜しないほうがいいのですが)と言う。クビになっても会社に居続け、最後は刑務所で餓死してしまうという物語だ(映画は原作とはラストシーンが異なる)。この奇妙な男に、辻さんは、自分自身の姿を見ている。

バートルビは、衝立のかげで書類を書き写す以外のことは、何一つしないのである。雇い主の弁護士が何か急ぎの用事を頼もうとする。するとすぐに、おだやかな、しかし確乎たる声で返事が返ってくる──「ごめんこうむりましょう」

いつのまにかバートルビは映画を観ている男自身になっている。(略)ふとした表紙に同じ姿勢のまま十年後の、あるいは二十年後の男の姿に見えたりする。(窓の外のテムズ川、それから隅田川の岸辺の古い町。)

『バートルビ』

ていねいに不条理な拒絶を繰り返すバートルビーも、貨物船=〈私〉も、表面的にはニート的な存在だ。しかし同時に、両者は自分以外のすべての世界を相手にささやかな抵抗を試みる者としても、ぼんやりと浮かび上がってくる。


■「佃渡し」の消滅

辻さんと同じく、隅田川のほとりで育った詩人(思想家)に吉本隆明がいる。
吉本隆明の詩といえば「異数の世界へ降りてゆく」や「佃渡しで」が有名だが、辻さんの「橋」という詩にも「佃渡し」が登場することを最近知った。

私は十代の終わりに「佃渡しで」を「渡し」の意味もよくわからないまま読んだ。「そんなことはない みてみな」という言葉が肉声を持って響いてきて胸をつかれた。しかし、最近、辻さんの「橋」を読んでそこに不思議なコントラストを感じた。

 佃渡しで     吉本隆明

佃渡しで娘がいつた
〈水がきれいね 夏に行つた海岸のように〉
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまつて揺れてるのがみえるだろう

(中略)

すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かつた距離が
ちぢまってみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり
いま氷雨にぬれながら
いつさんに通りすぎる



 橋     辻征夫

春雨や頬かむりして佃まで
(着いたらやんじまってよ
はねああがるし息はきれるし
こんなことならもうちょっと
飲んでりやあよかったなあ
ところでおれあいまいっさんに
橋を渡ってきたんだが
佃あ渡しで きのうまで
橋なんかあなかったぜ
おれあいってえ
何を渡っちまったんだろう)
花道を小走りに来た市川団十郎
舞台下手の仕舞屋の軒下で
頬かむりを取り
空を見上げながら括弧内の台詞
 (平成拾*年春 歌舞伎座)

佃大橋が完成し、「佃渡し」が廃止になったのが1964年。吉本隆明は40歳、辻さんは25歳のときだ。「佃渡しで」は、この橋が完成する間際に訪れたときのことを書いたと言われている。一方、辻さんの「橋」は、1996年に刊行された『俳諧辻詩集』に収録された作品だ。「歌舞伎役者の団十郎の台詞」という形で佃大橋を渡った様子を語らせている。

『俳諧辻詩集』は俳句と詩を組み合わせた詩を集めたもので、辻さんの詩集の中でも少し毛色が違う。読みはじめは「これは詩なんだろうか」と違和感を感じるかもしれない。しかし、江戸っ子言葉が連なる中に、確かに詩としか呼べないようなリズムと面白さがある。

橋(佃大橋)というモチーフが「近代」を指すとしたら、「佃渡しで」には強い葛藤が感じられる。「橋」はどうだろうか。全体にはからっとユーモアがあるが、それにしても、この言葉には奇妙な響きがある。

おれあいってえ/何を渡っちまったんだろう

この言葉は、単に橋というモノに対する驚きを表しているのだろうか。それは、過去を振り返ってみたときに生まれる違和感に重なる。たくましく想像を広げるなら、日本の戦後の思想のあり方にも重なるという気がする。

辻さんは、強い主張や思想からは遠く離れた人だった(と思う)。ただ、一方で声高に主張される「われわれ」「ぼくら」に対して愚直な「ぼく」であり続けることにこだわる姿勢は、誰よりも強かったのではないだろうかと感じる。

ぼくがあの六月のデモ(※2)の中で感じたことは、自分の、どうしようもない鈍重さである。たとえばぼくは、シュプレヒコールの『岸ヲ、倒セ!』には和することができたが、『岸ヲ、殺セ!』には声を出すことができなかった。なぜならぼくは、そう思ってはいなかったからである。また詩の世界では、『われわれ』の問題が論じられ、『ぼくら』の歌が苦しげに、高らかに歌われていたが、ぼくはそこからも、恐ろしい速さで取り残されていくのを感じていた。ぼくが彼らのレベルに達するためには、ぼくのなかでたどらなければならない段階がいくつもあるのを感じていたからだが、同時に、諸兄はいつ、どのようにしてそうなったのかという思いがあったことも事実である

「書評にならなかった書評」

60年代に熱風を吹かせた思想と闘争は「いっさんに/橋を渡ってきた」団十郎の姿にとたえられるだろうか。その中にもちろん辻さん自身も含まれていただろうが、「きのうまで/橋なんかあなかったぜ」という冷めた実感は、時代と思想がめまぐるしく変わる激流の中で、中州にぽつんと立ち続けた辻さんの姿勢に重なる。

「佃渡し」は隅田川の最後の「渡し」場であった。
川を愛した詩人たちにとって、その消滅は何を意味していたのだろうか。

物理的に橋がかかることで、人やモノがどんどん移動し、暮らしはより豊かに、便利になったはずだ。けれども、川という境界を「いっさんに」(一目散に)通り過ぎる時代にあっては、あいまいな領域の存在が認められない。「佃渡し」の消滅は「余白のない世界」の到来を象徴していたのかもしれない。

辻さんの詩には、自分と他人すらも分けない「渡し」の領域をふらふらしているような曖昧さがある。それがまた不思議な魅力になっているのだと思う。

※2 1959年から60年にかけて、安保条約の改定をめぐってデモが起こり、それはやがて岸内閣退陣を要求する激しい抗議デモへと変わった。1960年6月15日に国会議事堂を11万人ともいわれるデモ隊が包囲。警官隊と衝突し、死亡者1名を出す事件となった。

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本棚の詩人

福島奈美子

第一冊「辻征夫」

1 我が家の辻さん

2 川辺の辻さん

第二冊「辺見庸」

するどい眼の人が書く詩『生首』辺見庸