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うちの本棚には、辻さんが(たぶんまだ中学生くらいだった)夫あてにサインを入れてくれた『辻征夫詩集成』が納まっている。何とも可愛い字だ。私は、義父の辻さんエピソードをきっかけに、読まず嫌いだった詩をもう少し読んでみることにした。贅沢なきっかけだと思う。
よく見るとサインの「辻」のしんにょうの点が一個足りない。
夫に「これ、なんでだろうね?」と聞いた。
「知らん」と言われた。
辻さんの詩に『婚約』という詩がある(※2)。私はこの『婚約』が好きだ。ここに出てくる「きみ」と「わたし」はまるでふたつの小さないきもののようで、存在があたたかく生々しい。読むにつれ、幸せな気持ちが風船のようにふくらんでいく。
(こうなるともう/しあわせなんてものじゃないんだなあ)というくだりには、どこかひやっとする。「最高に幸せだ」ということなのだろうか、それとも……。「詩知らず」は、いろんな野暮な解釈をしてしまう。しかし、(しあわせなんてものじゃないんだなあ)という言葉が持つふくよかさに対して、それらの解釈のつまらなさと言ったらない。
言葉って、心って、そんなものじゃあない−−そんなものじゃあない、ということを、私は辻さんの詩を読んで改めて感じるのである。
辻征夫(つじ・ゆきお、1939-2000)について
詩人。やわらかく平易な言葉づかいでユーモラスに、人生の滋味を教えてくれる抒情詩の書き手。隅田川にほど近い町で暮らし、数々の詩を世に送りました。たとえば辻さんの「かぜのひきかた」という詩に、ミュージシャンの矢野顕子さんが曲をつけて歌っているなど、その詩はさまざまな分野の人を惹きつけ、いまも多くの読者に愛されています。
福島奈美子(ふくしま・なみこ)
1979年生まれ。編集者。2010年よりフリー。Webや雑誌でインタビュー記事などを手がけるかたわら雑文、エッセイを執筆。
Yuzuko(ゆずこ)
イラストレーター。1981年東京生まれ。2003年明治学院大学社会学部社会福祉学科卒業後、田代卓事務所に入社。雑誌・書籍・広告を中心に活動中。近著に『ふせん習慣の始めかた』(メディアファクトリー)ほか著書多数。