−−会社で一番の美人のIさんという女性社員がいたんだ。ある日、課長が「この背広のボタン誰につけてもらったと思う? Iさんだぞ、いいだろう」と自慢してきてね。当然、みんな「へえ」と羨ましがった。でも、実はそのときIさんと辻さんはもう婚約していたんだよね。
このエピソードを聞いたとき「何っ! 奥さん美人なのか」と思った。
いつのまにかすっかり辻ファンの私である。あくまでもミーハーである。
−−そのときに辻さんもいたんだけど、完全に知らんぷりだったね。その1ヶ月くらいあとに婚約を知って、みんな「そうだったのか」と驚いたんだ。そのあと、立場がないのは課長で。「課長、ところであのときのボタンは?」と茶化すたびに「うるさい!!」とふてくされていて、おかしかったなあ。
−−いつだったか、辻さんが突然「しんちゃん、温泉に行こうよ」と言い出してね。熱海かどこか同僚4人で行くことになったんだけど、私も辻さんも面倒くさがりだから全然仕切らなくて、結局ほかのメンバーに全部押し付けちゃった。そういう、飄々とした人だったね。
義父がする昔の話は、何というかいつも幸せなのだ。その中でも辻さんの話は、特別な輝きを放っていた。おそらく、義父は同僚としても詩人としても辻さんのことが大好きだったのだと思う。話のはしばしから、愛情が感じられるからこそ、何度聞いても楽しいのだ。もはや「あのお話もう一回して」とせがむ子どもの気持ちになっていた。
私は改めて思った。
辻征夫とはどういう人だったのだろう。どういう詩を作っていたのだろう。