■はじめに
『詩学の友の会』立ち上げおめでとうございます。詩学社最後の社長だった寺西さんにはたいへんお世話になりました。過去の詩学を当時出版された形で残すのが夢だとおっしゃっていたのが思い出されます。紙面を画像の形で残すということだったと思いますが、どのような形にしろ、アーカイブ化できたらいいですね。
今回は詩人アスパラガスさんについて紹介する機会をいただき、ありがとうございます。わたしの友人でもあり、コアなファンを持つ詩人でもあるアスパラガスさんは昨年2012年10月に亡くなりました。友人として過ごした時間は15年以上になりますが、彼女が詩を書いていた時期は2000年代前半の数年間にすぎません。年齢は10代後半から20代前半の若い時期にあたります。
当時はインターネットが普及しはじめたころで、文学や芸術に興味のあるひとたちがいくつかのコミュニティを作って交流をしていました。まだネット人口が少なかったため、数カ所に集中していたのが特徴的です。普段会うことのない様々な来歴の人々や知らない世界に出会って、皆がお祭りのように、何かに熱狂していました。わたしはネットがなかったら、詩学どころか、詩の世界そのものにも、一生出会うことがなかったと思います。
詩人は書き続けなければ詩人と言えないかもしれません。けれど、彼女だけでなく、一時期だけ活動していた多くの無名の詩人がいます。そんな方たちの作品のなかにも、切実な思いで書かれた一瞬のきらめきが、たしかにあると思うのです。
彼女の詩は、今読んでみても読み応えがあります。彼女は文学としての詩を勉強したわけではありませんが、彼女の持つすべてが注がれています。わたしの知るアスパラガスさんは、彼女のほんの一部にすぎないかもしれません。あくまでわたしの視点から、彼女の詩のさらにほんの一部になってしまいますが、紹介させていただきたいと思います。
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『僕はここで ライチを割ります』というこの詩の最後のフレーズが、声というより、指先でグラスをなぞってできた音楽のように耳の奥で反響している。互いが互いである“僕”と“君”が、一定の距離を保ちながら自分の身の上話をぽつぽつとしているような作品である。何のことについて描かれているのかぜんぜんわからないけれども、たくさんの映画のワンシーンを切り取って繋ぎ合わせたような格好のいい詩だ。
わたしたち、2000年代に出会い、彼女の詩を愛し、ともにちょっと遅い青春を過ごし、そしてちりぢりになったわたしたちみんなにとって、この作品は忘れることができないと思う。当時、みんなで恐る恐る朗読を初めてみて、彼女も例外ではなかったけれども、何度か朗読して、そしてやめてしまった。そのときに読んでいたのがこの『ライチ酒』である。
やわらかく、そしてくっきりした発声だった。それでいて、やっぱりガラスのような声だったと思う。彼女は同年代のなかでは少し大人びていて、わたしは彼女の言葉の向こう側に広がる知らない世界に、ただただ興奮していたけれど、今思えば、彼女が体感してきた映画や舞台の風景などが土台になっていたのかもしれない。彼女が何を見ていたのか、今ならちょっとだけわかるような気がするのだ。