今、詩歌は葛藤する 44
〜『IL』、金子光晴その14〜
竹内敏喜
『キリストだとばかりおもつてゐたら、おや、君は、死んでるはずの
貘さんぢやないか。どうして、また』
汗でべつとりとくつついたヅボンが、朝涼(すず)になつて
ひとりでにかわいて、それがすねからはがれるまで、
夜通しあるきつづける彼と、僕は、つれ立つてあるいてゐた。
さういへば、まつたく瓜ふたつだ。ちがつてゐるところと言へば、
琉球うまれの詩人のはうが、いささか毛ぶかいこと。
神とはなしあふときに、泡盛がほしいことぐらゐで、
ふたりともそろつてお人柄で、謙遜ぶかく、
それから、いつもききとれないほどの低い聲で、しづかにものをいふ。
(略)
『僕がキリストなんですつて? それは、どういふことでせうか。
僕は、生きかへつてでも来たやうなやうすで、それがなんだか羞かしいんですけど、
やつぱり、いけなかつたのですか』
貘さんは、申し訳なささうな、てれくささうな、
寂しい笑顔をしてみせる。
いけないどころか、こんなたのしいことはないのだ。
あの戦争のはじまるあと先ごろ、ふたりのほかに誰にもしやべれない、しやべつてゐることをきかれただけでも、
八つ裂きにされさうな、僕らだけのせいいつぱいの鬱憤を、
そのときもふたりでかうしてあるきながら、さんざん話しあつたものであつた。
日本人は、みな諜者になつて、往来のすれちがひにも、きき耳を立ててゐたものだつたが。
でも、いまの日本人は、あの頃とはまるでちがふ。彼らは、いまでは、
選ばれた民でもなければ、東洋の盟主でもない。
あひかはらず勤勉で、正直で、そのうへながいものには巻かれろだが、
わが身かはいさの底意や、駆引きが、気の毒でみてはゐられない。
(略)
とりわけ、このへんは物騒なくらゐの夜のくらさだが、
今夜の感動には、なんのさまたげもない。
鋼鉄(はがね)の一枚板のおもさで、ずり落ちさうな夜の穹窿いつぱいに
星といふ星が、あわててしがみつき、駆けあがらうと息せき、あらそふなかに、
跛の星が一つ、危ふく片足をふみ外す。
星とのへだたりよりも、もつと遠いところから来た人とめぐりあひ、
むかしながらの友愛をとりもどす。
こよひは、どこにゐても、慕しさでいつぱいなのだ。
(略)
詩集『IL』(一九六五年)から、作品「IL」の「三」の章を部分引用した。この長篇にふれる前に、『屁のやうな歌』発表以降に著者の周囲でおこった主な出来事を挙げると、一九六三年二月には実妹捨子が亡くなり、六月に息子の乾が結婚、七月に山之口貘が胃癌により死去するなど、光晴にとってもっとも身近な人物に慶弔事が起こっている。一九六四年に入ると、六月に孫娘の若葉が出生、八月に彼を慕う若い詩人たちと詩誌『あいなめ』を創刊、一二月にはジュジュ化粧品嘱託を辞めている。さらに一九六五年には、三月に令子と協議離婚して三千代と三度目の婚姻届が出され、森家に入籍した。このように見渡すと、光晴の身辺整理がいつのまにか成されていることに気づく。そして『IL』が、この年の五月に刊行されるのである。
まず、その「序」を任意に抜粋したい。
「心のままに従って埒を越えない手練の境地であってもいい年頃なのに、下根の僕は、いまだにふり出しでまごまごしてゐる始末。(略)僕たちのまぶたのうらにのこってゐる、それより他にかけがへのないものを、これ以上うすぼけさせてしまはないために書きつけておくといふのが、老人共通の才覚である」。
ここでは明らかに、自己の老いが意識されている。その意識において、重要視されているのは、どうやら、「まぶたのうらにのこってゐる、それより他にかけがへのないもの」らしい。おのれの興味や欲求には、可能な限り忠実だった光晴だが、自伝的小説などから受ける印象では、いわゆる物欲に迷うことは稀だったようにみえる。むしろ心から気の合う数少ない友人とのつながりを、非常に大切にしていたと思われる。そのため、当時、親友と呼べる最後の一人であった山之口貘が亡くなってしまったことには、かなりの痛みをおぼえたにちがいない。『文学的断想』から追悼の言葉を引く。
「貘さんと話しあう、ということがのこっていた人生は、まだしもどこかぬくもりのある人生だった。友人というものは、そういうものだ。そして、今日、貘さんを失った僕は、貘さんと僕との間柄のような友人が、もう一人ものこっていないという事実を前にしている。(略)臨終の日、『金子さん。もっとそばへ来てくださいよ。どうして、そんなに遠くにいるんです?』とうわ言したと、看病していた人から、僕はきいた。貘さんが、そういって僕をなじるような調子で、死に際に甘えていたことは、僕をセンチにするに値することだった。(略)貘さんのいないことは淋しい。しかし、それだけのことだ。貘さんが星ならば、幾万光年たってから、よその遊星からみとめられることもあるが、地球の寄生虫の僕たちの運命はどっちにしても、ながいものではない。(略)じぶんが文学をたのしめればそれで充分である。文学をたのしまない人たちにとってだけ、むずかしい規定が存在するのであって、たのしむという境地は絶対だ。そのイミで、貘さんは、相当、モノモチといってもよかった」(『金子光晴全集13』より)。
この一文からは、多くのことを読み取れよう。なかでも、「たのしむという境地は絶対だ」には強い信念が感じられる。これは結果として、「貘さんのいないことは淋しい」といった気持ちを乗り越える足がかりにもなっていそうだ。あわせて、「地球の寄生虫の僕たち」と捉えるような視線を確固たるものにしている。「幾万光年たってから、よその遊星からみとめられることもある」という発想も、この詩人の時空的感覚を文学的に表したものと受けとめられるが、こうした感受性があるからこそ、抽象性としての世界的なキリストと、具体性としての地域的な山之口貘が、ひとつに交わることができたのかもしれない。もしくは、ある人格が文化的に背負っているものは、幾層にも探れるということだろうか。
この点に関しては、吉本隆明が卓見を残している。例えば、「アジア的」な制度の特徴について、「政治的な権力が制度を敷くばあいに、始めから終りまで、宗教から法律末端に至るまで、全部じぶんたちの考え方で制度の組み変えをしないことから由来します。それ以前にある共同体の制度を、できるかぎりそのままに温存して、その上に乗っかって政治権力を行使」する傾向があると指摘している。大和朝廷などにおいても、自らの制度や文物を末端まで押しつけたりせず、利害に反したり、反抗しないかぎりは、できるだけ元の共同体をそのまま温存し、その上に権力を乗せる方法を取っていた。経済的にいえば、各地に直属の御宅を置いて貢物をとる制度であり、この構造は、明治以降、近代西洋の制度が入ってきたときにも潜在していたという。
加えて、こうした構造は、日本における隠遁思想、出家思想にも大きく関係するというのが、吉本の独自な論点として提出されている。その内容を簡単に記すと、共同体が支配され新しくなっても、底辺に残る共同体における以前の制度や宗教や風俗や習慣などのなかに、太古から受け継がれてきたものが含まれているのではないか、との観点を土台にし、「底辺の共同体のところで流布されている制度の思想や、古代から受け継がれている伝統的な宗教や習俗は、権力や制度がどう変っても『帝力吾において何かあらんや』という感性の距離に遠ざかります」といった見解を導き出してくる。これらの意味するものとして、「思想が制度にぶつからないまえに、山川草木にぶつかり、そこに関心が滞留しうるだけの充分な感性の距離をもつ」ことや、「文学、詩歌の類が人間臭さにぶつからず自然のなかに自己を移し入れることで成り立ち、政治制度の思想が<天>の秩序にかかとを接して権力の秩序を構えた」との考察をまとめ、感性的につかまれた「アジア的」という概念をスマートに説明している。
以上は、「良寛詩の思想」(一九七八年九月の講演)から得られる思索の一部ではあるけれど、権力者による管理体制が進む一方、地球環境そのものが不安定になっている現在においては、あらためて教えられることが多いのではないか。余談になるが、「自らの制度や文物を末端まで押しつけたりせず、利害に反したり、反抗しないかぎりは、できるだけ元の共同体をそのまま温存し、その上に権力を乗せる方法を取っていた」、「この構造は、明治以降、近代西洋の制度が入ってきたときにも潜在していた」のような構造は、二一世紀以降の日本にも、果たして当てはまるのだろうかと考えておきたい。戦後以降、義務的な学校教育により欧米の価値観が子供たちに植えつけられ、世代が変わるごとに、かつての日本人の底辺にあった価値観との隔たりは広がってきた。そして記号論的な管理システムが徹底されていく今、この積み重ねのうえに育てあげられた若者たちが、社会の中枢に位置するだけでなく、テレビやインターネットなどを通して積極的に自己顕示することで、経済観念に根拠をおく一律的な価値観も、世界共通の絶対的なものとされるに至ったようだ。情けないことには、学校での教育と、家庭における教育内容がぶつかった場合、世間からは、たとえ良いものでも家庭での教育が非難されるのが当然となったのである。
また、恐ろしいことに、「かつての日本人の底辺にあった価値観」を尊重する数少ない教養人でさえ、全体主義的な弊害から逃れられなくなっている。彼らはその感覚を学び、身につけ、広めようとすればするほど、方法として「経済観念に根拠をおく一律的な価値観」に頼るしかなく、知らず知らずのうちに自己の良き部分を、市場におけるほとんど売れない商品として埋没させるしかない。仮に、自分たち仲間の得た感覚を守ろうとすれば、外部の遮断へと通じていくだろう。皮肉なことに、それは、「経済観念に根拠をおく一律的な価値観」に憧れながらも、うまく適応できない人たちの選ぶ行動と同じなのである。
一方、常に自己防衛的で傍観者であった光晴は、晩年、こうした未来を目前にして人間社会にほとほと愛想を尽かし、閉じられながらも開かれているエロスの世界に、生命の鍵を探求しに出かけたと考えられないこともない。それも、内なる欲望というより、単なる食欲に似た反応であったため、浮世離れした軽さが好印象を与え、エロじいさんとしてマスコミの寵児に仕立て上げられていった。これはこれで、「帝力吾において何かあらんや」という感性の距離だろうから、達人とはこうしたものだと納得するしかなさそうだ。なお、セクハラ意識の跋扈する現在では、こうした達人はもはや成立しないだろう。
さて、吉本の指摘をふまえつつ本題に戻りたい。引用した詩の冒頭、「『キリストだとばかりおもつてゐたら、おや、君は、死んでるはずの/貘さんぢやないか。どうして、また』」には、光晴のキリスト理解の方法と、その底辺にみえてくる貘さんの存在の意味が、少なからず辿れる気もする。結論だけ述べれば、「ふたりともそろつてお人柄で、謙遜ぶかく、/それから、いつもききとれないほどの低い聲で、しづかにものをいふ。」とされるキリストとは、非西洋的な性格であろうし、西洋文化批判に通じる象徴として、ある種のモデルになり得ていよう(西洋批判は西洋的な行為だとする見方は正しいが、光晴の立場から論じているので今回は留保)。このモデルの性質を解き明かそうとすると、日本の隠遁思想に近いようでいて、かなり俗っぽいあり方へと歪められているのがわかる。そのあり方を同時代の人物に当てはめたとき、彼には山之口貘という人物の一面がみえてきたのかもしれない。気づきのきっかけは、貘さんの死という事実にあっただろう。死はやはり、生きているときには不可解だった人間のような顔を、人間らしい顔に整えてしまうのである。
俗っぽいあり方と仮に表現したが、彼はこの長篇詩の「二」の章で、「『ときに、日本へは、どんな御用向きで、それから、おほよその御滞在のスケジュールは』」との問いに、「ニホンのお嬢さんがたと、お友だちになりたいのです」とキリストに答えさせており、これなどはそうした印象を受けないだろうか。そればかりでなく、「三」の章の末尾では、「『もしもあの娘(こ)にあつて僕が、あの娘を好きだといつたとき、/もしも、あの娘が、それでいいと答へたなら、/交接をしても、かまひませんか』」と貘さんにも語らせている。これらの前提には、「女ずれのしたキリストとはこと変つて、娘さんの前に出ては、/人並以上気の弱い貘さん」とあるけれど、もちろん、ここまでくると、作者自身の内面のあらわれだと捉えるしかない。とはいえ、いずれも充分に「今昔物語」的な雰囲気をかもし出しているのは事実であり、それは「七」の章に、古本屋の店先で語り手がぱらぱらめくっている普及版のこの本が登場していることからも、光晴は確かに自覚していたと思われる。つまり、ニホンに来たキリストは、貘さんという性格をそのまま残しつつ、そのうえに成り立っており、詩人は、その貘さんの基底部分に今昔物語的なものを見出していたのかもしれない。それは、笑い、怒り、悲しみなどを、楽しさへとつなげる情感だろう。
そういえば、「このへんは物騒なくらゐの夜のくらさだが、/今夜の感動には、なんのさまたげもない。」、「星とのへだたりよりも、もつと遠いところから来た人とめぐりあひ、/むかしながらの友愛をとりもどす。/こよひは、どこにゐても、慕しさでいつぱいなのだ。」の部分には、比類ないほどのメルヘンの雰囲気があり、光晴特有の人間臭い表現は利用されていない。その結果、基底としての今昔物語的なものも、思い出という場のなかに昇華され、貘さんへの友情の気持ちが、ひとつの発生のシーンを呼び寄せてくるようだ。いわばキリスト生誕あるいは復活のシーンが、ここに重なって見えてしかたないのである。
最後に、詩集『IL』の解説として清岡卓行は、「キリストの無残さは、植民地とされた東洋で最低の生活に生きた一部の民衆の無残さの反映ではないかとまで感じられる。キリストがこれほどの人間的共感、これほどの<下降への憧れ>をもって描かれたことはめったにないだろう」と書いている。まったく同感であるとともに、詩人としての金子光晴の偉大さは、こうした視点に到達したことにあると主張しておきたい。
竹内敏喜(たけうち・としき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)