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今、詩歌は葛藤する 43
〜『屁のやうな歌』、金子光晴その13〜

竹内敏喜

 『屁のやうな歌』(一九六二)を読んでいると、作者像として、肩の力の抜けた年寄りの姿がみえてくる。実際、詩集発表のころには、詩人も六七歳に達しようとしていた。前詩集を刊行してから六年ほど経っているわけだが、その間も、短文や詩の依頼原稿などの執筆の量はけっして少なくない。また、一九五九年から四年間ほどは、持病の喘息が特にひどく、秋から春にかけての体調管理に悩まされていたようだ。それだけでなく、軽い睡眠薬中毒になり、精神が不安定だった時期もある。病床の妻のこと、世話をしなければならない愛人のことなどもふまえると、彼なりに多忙すぎる毎日を送っていたのだろう。それはそのまま、酷使してきた身体にとって大きな負担になっていたと考えられる。
 この時期、光晴は執筆業のほかに、実妹らの設立した化粧品会社での広告手腕をかわれて、一九五二年三月にジュジュ化粧品嘱託となり、東京放送「七色のメロディ」の仕事にかかわっていた。この職には一九六四年一二月まで就き、広告デザインや、ラジオ放送の収録を終えた皆のねぎらいなどをしたらしく、彼の柔和な人柄と風貌のおかげで、場はすぐさま和んだという。しかし詩人は逆境を糧としてきただけに、平和時のこの定収入が、詩への意識をどう左右したかはわからない。少なくとも、今回の詩集は、彼の全詩業のなかで、筆者にはもっとも物足りない内容だといわざるを得ない。他方、定収入があるといっても、他人へのサービスが好きなうえに浪費癖がひどいので、愛人に贅沢をさせられるほどではなかった。結局のところ、忙しさは増すばかりだったのではないだろうか。
 ところで、老いについて書かれた文章を探してみると、一九六六年四月一九日の「東京新聞」に掲載された「老年地獄」というエッセイが、全集にみつかる。作者は、まず自分の心のあり様として次のように始めている(以下、『金子光晴全集8』より)。
 「僕は、ひとりでいるかぎりは、かかる七十歳などとは、なんのかかわりもない心境だ。世間へのつら当てに、七十歳のかわった生きかたを試みてみせようなどという反心すらもちあわせないし、年よりもお若いことでなどと、口あたりのいいことを言ってもらいたさに、若さを勉強するような、こころの見えすぎた業をしようともおもわぬ」。
 ここでは、肉体上の老化が、精神の状態とやや乖離している自己の実情を述べるとともに、これを原因とするような、世間に対抗する気持ちはほとんどないことが告げられている。換言すると、彼の生活においては、あくまでも精神こそが中心にあったのだろう。つづけて、現代の老人をめぐる特徴として、「老人のいじけている時代」だと指摘する。
 「悲劇の本質は、消耗品である人間の肉体ががたがたしてかえがきないのに、精神だけが、それについてゆけずに、いつまでも青いということである」。
 精神が肉体の消耗についていけないとは、どういうことだろう。おそらく、精神の老いを許さない何かが、社会の側に存在するのだ。簡単にいえば、現在の経済至上主義的な価値観に向かう流れのことであり、高度な職人技が技術革新により大転換され、分業による作業の均一単純化などが普及するが、詩人は疑いのまなざしをもって嗅ぎ取っていたと思われる。その社会の流れにおいては、仕事の質でも量でも計画通りの成果だけが求められ、働く者の個性は邪魔なものと見做されるだろう。これでは、互いに人間の尊厳を育む風土がうまれるわけがない。そこで懐かしみをこめ、昔の老人について言及していく。
 「むかしの老人は、居場所があって、インポな奴はコットーいじりとか、寺まいりとか、盆栽とか、適当な時間つぶしができるようになっていたし、業のふかい奴は、金の重みで、老人のグロテスクな魅力を、若い女にまでもおしつける方法があり、そのしくみが発達していたものだ。『男は、としよりのほうが親切で、巧者でさ、味を知ったら忘れられないものだよ』女同士のそんな教育のしかたもあって、としよりのあいてになる、としよりむきの女というものが多かったものだ」。
 このような年寄りのための文化が失われたことで、今の老人は「新しいじぶんの立ち場をつくるために努力しなければならない」と書き手は嘆息しつつ、一文を終えている。
 「自信を失うということはおそろしいことで、老人は、じっさいにやってこなければわからない貴重な経験までじぶんから放棄して、ニコヨンに成りさがることで、寛容の美徳を果たしたつもりかなどでいる。砂のうえに消しては書く文字とおなじことで、ムダなことと承知しながら僕だって、文学のはしくれのしごとをつづけている」。
 光晴の好みからすると、これまでは、老いた者を中心とする文化には否定的であったといえる。例えば戦時中に非難したのは、こうした文化のもとで凝り固まった国民の体質であり、その体質との違和感を我慢できなかったゆえに、社会の活発な場所からいつも外れることになった。それは彼の活動した詩歌の現場でもそうだった。ところが、この一文をみると、老人には「じっさいにやってこなければわからない貴重な経験」があり、これを大いに評価している。このことは、人物を個別にみようとする態度でもあるから、彼がかつて記した「個人しか信じられず、団結した人間の姿に、自然悪しかみることができなかった」と矛盾するわけではない。その点、あえていえば、「個人を信じる」感覚が、より柔軟になったのだろう。理由は、社会権力から虐げられるときの感覚が、以前の人間以下としてみる視線から、非人間的なものとみる視線に変容したためかもしれない。詩人は、他人の貧乏には敏感すぎるくらい気を遣っており、社会の新しい風潮を嫌悪していたのではないか。ちなみに「ニコヨン」とは日雇労働者の俗称で、昭和二〇年代の半ば、職業安定所からもらう定額日給が二四〇円程度であったことから、そのように呼ばれていた。
 以上のように、このエッセイからみえてくる老いに関しての光晴の認識は、精神は若いときのままなのに肉体は老いているとの自覚があることと、今の時代は老人に居場所がなく新しい立場をつくらなければならない、という二点にまとめられる。また、無駄なことと知りつつ文学の仕事を続けていると語っているが、社会学的な相対的価値観として、一般の読者に対しては、そのように書かざるを得なかったと考えたい。もちろん心の奥底では、詩の価値への信念が、燻ることはあっても消えずに燃えていたはずだ。ただ、『鱶沈む』(一九二七)の後に放浪生活による空白期間が訪れたように、『水勢』(一九五六)の後には精神を安定させるためにも空白期間が必要だったと感じないこともない。このとき、頼まれれば原稿を断れない性格だった光晴は、新詩集制作の依頼を受け、書下ろし作品を多数含む本を上梓するしかなかったのだろう。ともあれ、詩集から一篇「偈」を挙げる。

人を感動させるやうな作品を
忘れてもつくつてはならない。
それは藝術家のすることではない。
少くとも、すぐれた藝術家の。

すぐれた藝術家は、誰からも
はなもひつかけられず、始めから
反古にひとしいものを書いて、
永恒に埋没されてゆく人である。

たつた一つ俺の感動するのは、
その人達である。いい作品は、
國や、世紀の文化と関係(かかはり)がない。
つくる人達だけのものなのだ。

他人のまねをしても、盗んでも、
下手でも、上手でもかまはないが、
死んだあとで掘出され騒がれる
恥だから、そんなヘマだけするな。

中原中也とか、宮澤賢治とかいふ奴はかあいさうな奴の
標本だ。それにくらべて福士幸次郎とか、佐藤惣之助と
かはしやれた奴だった。

 ここには、語り手の主張だけが叫ばれているようにみえる。それも、素人の意見などに耳をかさない、熟練者の押しの強さばかりがある。この作風は、彼の初期にもみられるもので、例えば一九一七年ごろに書かれたと推測される「反対」は、次のような詩だ。

僕は少年の頃
学校に反対だつた。
僕は、いままた
働くことに反対だ。

僕は第一、健康とか
正義とかが大きらひなのだ。
健康で正しいほど
人間を無情にするものはない。

むろん、やまと魂は反対だ。
義理人情もへどが出る。
いつの政府にも反対であり、
文壇画壇にも尻をむけてゐる。

なにしに生れてきたと問はるれば、
躊躇なく答へよう。反対しにと。
僕は、東にゐるときは、
西にゆきたいと思ひ、

きものは左前、靴は右左、
袴はうしろ前、馬には尻をむいて乗る。
人のいやがるものこそ、僕の好物。
とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。

僕は信じる。反対こそ、人生で
唯一立派なことだと。
反対こそ、生きてることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。

 まるで駄々っ子の言い分だが、光晴の思想に一本の筋が通っているとしたら、その本質は、確かにこうした面にあったようだ。さまざまな経験にふりまわされていた渦中では、彼の好奇心の方が前面に出て、この本質はやや陰に隠れていたのだろう。しかし世の中に平穏な雰囲気が浸透していき、自分もいくらか収入を得られるようになると、人生の残された時間を考えるなどして、これまで以上に傍若無人に行動しはじめたようにもみえる。そこで、抑えられていた自己の本質が大きく目覚めていったのではないか。振り返れば、「反対」を書いた二二歳のころの光晴は、義父を亡くし、金銭的には裕福だが、孤独で、学業にも専念できず、しだいに体調を崩していったころである。そんななか、耽美的で頽廃的ともいえるボードレールの作品に親近感を抱くなど、それまで以上に詩の世界にのめりこんでいった。ある意味で、外部からの強い抑圧を感じながらも、わがままが発揮できている時期に、引用した二つの作品は成立しているといえるだろう。
 作品「偈」と「反対」を並べてみて、すぐに気づくのは、「感動」や「信じる」といった現代詩人には使いづらい言葉を、無造作に使用していることである。また、「たつた一つ俺の感動するのは、/その人達である。いい作品は、/國や、世紀の文化と関係がない。/つくる人達だけのものなのだ。」といった外界への発想と、「僕は信じる。反対こそ、人生で/唯一立派なことだと。/反対こそ、生きてることだ。/反対こそ、じぶんをつかむことだ。」のような内部からの発想は、表裏一体と見做せるから、内容的にはほとんど同じものと受け取れる。これらには、文化的なものに対する生理的な敵意が読み取れよう。
 それだけに、作品「反対」の一節、「健康で正しいほど/人間を無情にするものはない。」くらい、光晴の人生観を赤裸々に語っている言葉はないのかもしれない。この感覚をふまえ、あらためて「偈」の末尾の独り言のような部分を味わうと、中原中也も宮澤賢治も夭逝しているので健康な生き方とはいえないものの、福士幸次郎や佐藤惣之助と比較すれば、どことなく劇的な正しさを感じさせる。その宿命感によって、後世の人々の興味を引いてしまい、「死んだあとで掘出され騒がれ」たとも思われる。中也や賢治の作品は個性的であるがゆえに、天才詩人としてのイメージが定着すると、その肯定性が強い力を持ち、ファンの多くを団結させるとともに他者を排除するようになったのだろう。それが「無情」のあらわす事態だと、捉えてみてもよい。一方、光晴がつぶやく「しやれた奴だった」との響きには、福士幸次郎や佐藤惣之助などの人物像として、その場に集った仲間を大いに楽しませ、役を終えるとパッと去って行ったような、まさに花火が空に輝いて消えていく様子にも似た、引き際の良さを讃えている印象がある。同様なものとして、一九六九年四月の「中央公論」に載った「爺さん罷り通る」から、一部分を抜粋してみたい。
 「つまらないものほど、私には興味がある。諸道の奥義だとか、達人の心境だとか、禅のさとりだとか、大人物だとか、極限の思想だとか、天才だとかには、まことに関心がない。私は、ずいぶんむかしから文学の勉強をしていて、すこしはえらくなってもいいわけだが、才能がまずしいうえに、まがぬけた性ぶんなので、いつまでたっても一流にはなれない。それに、じぶんでも、中どころが好きだ」(『金子光晴全集8』より)。
 まったくの額面どおりには受け取れないが、こうした一面により、彼の個性が育てられたのは事実だろう。最晩年の執筆、「新潟日報」(一九七五)に二月末から三月末にかけて五回で連載された「私の五選詩」で選ばれている作品をみると、「題しらず」(黒田忠次郎)、「座蒲団」(山之口貘)、「小景異情」(室生犀星)、「母」(吉田一穂)、「サンサシオン」(ランボオ)が挙げられている。いずれも短い作品なのは、字数による制限があったためと想像されるけれど、付されたコメントを読む限りでは、世話になった先輩であり、心からの友人だとわかる。おそらく光晴は、最後の最後まで、文学青年の心を持続していたのだろう。それは、自分と言葉が通じる相手との交流を楽しむことであり、たとえ天才だと感じても、会話の噛み合わない相手からは、離れるしかなかったのだ。

(二〇一八年五月三日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

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