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今、詩歌は葛藤する 39
〜『鬼の児の唄』、金子光晴その9〜

竹内敏喜

 詩集『鬼の児の唄』(一九四九)を読むにあたり、参考になるであろう文章を、一種の評論集である『絶望の精神史』(一九六五)から抜粋したい。詩人はその「まえがき」で、絶望する日本人がどうしてできたかまでは問えないが、目の前にいた絶望者にものを言わせることはできる、と述べている。自分の身辺にいた人たちが、「彼らは彼らなりに、それぞれ、その背に、その肩に、近代日本の絶望を背負って」いたことを、光晴は常に感じ取ってきたのだろう。彼がみる日本人の性質は、「表面は、恬淡として、無欲な日本人、無神論者の日本人。だが、その反面、ものにこだわり、頑固でうらみがましく、他人を口やかましく非難したり、人の世話をやくのが好きなのも日本人である」との認識だが、それらの性格のもつれや食いちがいのなかから引き出せる日本人観を示したいと、著作の目的を語っている。そこでまず、執筆時から百年前にあたる明治時代の気質を、つづいて時代が大正に移ってからの変化について、作者の語るところを挙げてみる。なお、金子光晴が生まれたのは明治二八年にあたり、大正元年には一七歳であった。
 「子どもが親のエゴイズムを無視したときの親の悲嘆は大きい。その責任感を飛躍させて、親たちは、『優秀な赤子を一人すたれものにして、天皇陛下にすまない』と本気で考える。そんな思想が、ひろく親たちにゆきわたった(略)明治の父親は、明治の青年を苦しめた。だが、もうひとつ、明治の青年を苦しめたものがある。それは、新しくはいってきた『恋愛』という神である。このデリケートな神の前に出ると、青年はどうふるまってよいのか、見当もつかずに、とまどい、異常で、唐突で、不可解な、絶望的な行動までとることが、しばしばあった」(『金子光晴全集12』より)。
 「たくさんな映画がはいってきて、明治の末ごろから、西洋人の恋愛のポーズをまねて、抱擁や接吻のしかたもわかってきたが、それでもまだ男女は、人前を遠慮して、三十センチ以上もはなれて道を歩かなければならなかった。くっつきすぎて歩いているだけで、夕涼みの縁台の若い衆たちからからかわれたり、通りすがりに舌打ちをされたりした。巡査が寄ってきて、身元を誰何することもあった。あと先を見回して、人のいないのを確かめてからでなければ、手もにぎれなかった」(『金子光晴全集12』より)。
 「明治は、たしかに男の時代で、女はあてがい扶持で満足させられていた。そんなふうにみえていて、女はそのマイナスを最大に利用して男にくいさがって、個人のわずらわしい責任を、すべて回避していたというのも、事実である。頭のよくない女が、どこまでも損をしょいこんだということでもあろう」(『金子光晴全集12』より)。
 「だが、大正期にはいって、はばかるところなく受け入れられた外来の思想文化を、どれ一つ突きつめていってみても、明治以来の尊王攘夷の国策に、抵触しないものは一つもないということになる。国体と正面衝突をする革命思想でないまでも、淳風美俗をたてまえとする当局からすれば、彼我の風俗のちがいとかたづけて放置しておくことのできないような、人倫破壊の思想や猥褻文学が、芸術という、もっともらしい名目をつけて、大手をふってまかりとおる。それを、文化人をはじめ中学生までが、拍手喝采でむかえるありさまである。だが、うっかり、取り締まろうとしたりすると、知識人や若い世代の愚弄を浴びて、立ちすくみの憂き目にあわされる」(『金子光晴全集12』より)。
 以上の見解を、一般化できるかどうかはわからないけれど、ともかく金子光晴によるまとめとしては、明快かつ重要な内容だと思われる。大正以降では、昭和における世界大戦前後の日本人の様子を描いているが、このあたりについては彼の詩集『鮫』から『女たちへのエレジー』を取り上げた際に言及しているので、今は省略する。いずれにせよ、絶望が人生におけるひとつの選択肢であった時代から、だれもが絶望のなかから何かを選択しなければいけない時代になったと、詩人は見定めているようだ。
 そうした環境のもと、一〇代の彼は現代小説に興味をもち、早稲田大学英文科に入学する。ところが、文学者の使命を感じているような連中ばかりがおり、気勢をそがれ、文学に憎しみをおぼえるほどになって退学してしまう。次に、日本画家になることにして東京美術学校日本画科に入るものの、ここでも先天的に画才に恵まれた若者がたくさんいて、すぐにやめてしまう。どちらの場所でも自分の無教養を思い知らされたわけだが、相手に何を話していいかわからず、黙りこむようになると、先輩からは、傲慢な人間だと思い違いされる結果になったらしい。その後、慶応義塾大学に入学する。しかし病気になり三カ月ほどで休学。当時の気分を、「そのころの僕は、自分が無用人のような気がしていた。(略)かくべつ金に困ったおぼえのないものが、金がなくなってきたときに、だれしも味わうこの非力感は、およそ処置のない崩壊のはじまりであった」と回想している。
 とはいえ、彼の生い立ちを辿っていると、根っからの怠け者であったとはみえない。確かに幼少時から、「人間の肉体に対する郷愁に似た愛着と、ゆきどまりのない所有欲」を持っていただろうし、「明治三十年代の刺激の強い、どぎどぎしたアンバランスなおとなたちの生活が、僕の平安をかきみだしてしまったのか」といった周囲の雰囲気に対する疑問もあったにちがいない。これらは、人恋しさや愛情への切実な執着心を育む一方、男女関係の文化的遊びの面も教えたはずだ。そして興味をもって、麻薬にも似て習慣になる遊びに手を出したのも事実だろう。しかしながら、「自分から求めて、学業をほっぽって、いわゆる不良と呼ばれている年上の少年たちと、家を外に、さまよい歩いていた」のは、他に大きな理由が存在したからではないか。少なくとも、その頃におぼえた感情について、「年上の彼らのもっていた気持と、僕のゆきどころのない気持とが、かすかにふれあうのを感じた。ひどく悲しい気持だったが、それを忘れることはできなかった」と述べており、楽しみだけがあったのではなく、どちらかといえば心に痛みとして残るほどの感傷の記憶になっているのがわかる(引用はすべて『金子光晴全集12』より)。
 その理由の答えは、本人の記述ではないけれど、遺言されているともいえる。それは、桜井滋人の著作『風狂の人 金子光晴』(一九八二)のなかの、二人の対話内容である。ただし、どこまでが本当なのか確認できず、まったくのフィクションである可能性も高い。それでも引用しておくべき言葉だと、筆者は判断せざるを得ない。なぜなら、ここにこそ「鬼」の原型があると考えられるからである。問題となる部分を引く。

 「オレはおふくろを知ってるんだ。義母だけどね。オレはおすみさんに抱かれて寝てたんだよ、子供のころ」
 「その話は聞いてますよ」
 「ああ、話した」
 金子さんは白毛まじりの鬚の生えた顎を右手の四本の指で押しあげてみせて、また、ジロリと私を見た。それで、
 「こうやって、キスされて、童貞を」
 といった。
 「中学二年のときだ。今だって忘れちゃいない。それから成績が落ちはじめたんだ」
 私は腹の底で唸った。先生は嘘いっちゃいない、と思った。これは聞かなくちゃいけない、冷静にだ。精神科医のように冷静に……。しかし、先生、そんなこと、喋りたくなかったら、喋らなくたっていいんですよ……。
 「サクライサン」
 と金子さんはいった。
 「ああいうことはイヤなことだ」
 私は頷いた。
 「普通の人間ならきちがいになるよ。しかし、オレは放蕩でごまかした。オレが本当の意味での蕩児ではねぇというのはそういうことさ……不良でもなかったよ、オレは本が好きだったからね」
 (略)
 「ああいうことは経験してみなくちゃわからねぇ。あれからだ、オレが人間を信じなくなったのは」

 ちなみに義父は光晴が二一歳のときに胃癌のため死去しており、また、光晴と義母との年齢差は一四ほどだ。桜井氏はこの対話のあと、「たしかにこの人は優しい。しかし、腹の底では誰も信じてはいない。それが俺にはわかる。優しい鬼といわれる所以だ」と書いているが、賛同すべき解釈だと思われる。もしかすると、その鬼は、おのれの孤独の真の原因を探ることくらいしか、この世でのやるべき仕事をみつけられなかったのかもしれない。キリスト教なら摂理があり、仏教なら因果がある。これらについても光晴は、独自のまなざしで研究し、詩作に活かしているように伺える。だが、孤独とは、一人の人間の生命と、いわば地球との関係といった視点から探求すべきものであり、解答を一点に求めてしまうなら、安易かつ空しい作業になると、いずれ気づかざるを得ない性質のものだ。ここから推測し、鬼とは絶望とともにあり続けることだと観念していたと、感じないこともない。『鬼の児の唄』に限らず、全詩業から、その感覚はじわじわと伝わってくる。
 『鬼の児の唄』の「あとがき」には、「これは大体、華日事変から、太平洋戦争にかけて、終戦の歳の五月頃までにわたる作品である。はじめの部分は戦争中発表したものもあり、雑誌社からつつ返されたものもあるが、あとの方は全く、発表の機会がなくもちぐされの覚悟でゐたものが多い。(略)晦澁な詩風は、全くあの時期に、発表の目的で作つたためだから、あしからず。」とある。都合よく理解するなら、鬼は、戦争中に表現行為の前面に浮上してきたと、みることができる。ということは、鬼という自分のなかの絶望者に、ものを語らせなければ済まないほどの激しい感情の爆発が、そのときあったのだろう。この観点をふまえ、今回は作品「卵の唄」を取り上げるが、鬼の連作の制作順序とはかかわりなく、卵によって意味される始源のイメージについて考えてみたい。

——大地獄、小地獄のふつふつとたぎる泥のなかで、鬼は卵を孵す。卵は猶火焔に抱  かれてねむる。鳴動する岩、ちぎれとぶ雲。

 三本の指をたゝんだ
皺だらけな蹠は
うへむきにひらく。
宇宙が秤る
「我」のおもたさ。

法官たちは
ならんで見護る。
この鬼怪の芽が
殻のなかで
宇宙を夢みるのを。

相剋と、懊悩も、
非運も、呪咀も
まだ天と地のやうに
はつきりとわかれず、
愛憎も混沌。

透いた血の
鼈甲いろのなかに
かたちの影がうごき
まづしのび入る
哀愁。

痣の青と
氷塊のみどりから生れる
乳色のオパールの
ちらばる火が
いのちをみちびく。

火焔はなめる。
ながい舌で
みじかい舌で。
繻子のやうに包む。
悩みのかたまりを。

七殺の凶運を。
不可解な
智慧の篆文を。
欲望のひこばえ、
禍の端緒を。

 卵は、火焔に抱かれている。卵のなかには鬼の児がおり、その「我」のおもたさを宇宙は秤っている。宇宙の秩序を司る法官たちは、鬼の児が宇宙について夢みるのを、見護っている…。この部分を読むと、宇宙と鬼の児のつながりが密接であることがわかる。それゆえに法官のような現在の秩序の権力者は、未来に危うさを感じるのだろう。
 鬼の児のまわりには、未来をめぐってさまざまな運命が混沌としているが、まずは哀愁が彼にしのび入る…。ここには鬼の哀しい宿命が示されている。おそらく彼の実力は実際にはそれほどでもなく、いずれ法官から邪険に扱われるだけだろう。そして、広い宇宙のなかに自分の居場所をみつけることすら困難になるにちがいない。それは彼に絶望を教え、なぜ絶望しなければならないのか、自問させることになるだろう。
 火は鬼の児のいのちをみちびくが、鬼とは悩みのかたまりであることを知っているかのようで、ますます悩みをかきたてさせる…。鬼の存在は、宇宙にとって禍となるしかない。彼がたとえ宇宙の幸福を夢みたとしても、宇宙は反射的に彼を裁くだろう。その原因である、この「我」とは何なのか。仮説を挙げるなら、それは、宇宙自体の不完全性のあらわれではないか。つまり宇宙の存在を証明するには、鬼が必要だということである。

(二〇一八年一月二五日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

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