reviews
詩と出会う

essays
いま

interviews
人と出会う

今、詩歌は葛藤する 34
〜『鱶沈む』、金子光晴その4〜

竹内敏喜

 ここ三回の詩論のための指針の内容を、ひっくり返して反対から眺めれば、何が現れるだろうか。つまり、人工的な技術で地球環境を完全にコントロールできたとすると、地球外から入り込む未知の力がない限り、一〇〇〇年王国も夢ではないのかもしれない。その前提として、地球という生命体の可能性と限界が分析できていなくてはならないが、現代の科学者の実力をもってすれば、数値的には時間とともに明確になっていくと思われる。
 いずれにせよ、野生の動物や植物などの生物が正確に管理されることで家畜化し、これまで以上にそれぞれの秘めている能力が発見され、さまざまな分野で利用されるだろう。人間の暮らす環境は、可能な限り快適な空間となり、個人の健康の目安が定期的に一覧に示されるだけでなく、身体に悪影響を及ぼすウイルスや菌類は、人間の生活領域からほぼ遠ざけられるだろう。日々の労働においても、能力の適材適所が柔軟に機能されることで、経済における価値の感覚が変革し、そのうえ多くの犯罪の原因でもあった金銭による取り引き制度が廃止されていることも予想される。政治世界では、人工知能に頼ることで無駄が抑えられ、どうしてもなくならない利害関係や既得権益に対しても、当事者への排除の発想ではなく、地球全体を視野においた第三者機関による時間的余裕をもった穏当な裁判が実施されるだろう。こうした世界観は、絶対神による宗教的世界観に近いのかもしれない。譬えるなら、ハチやアリの集団生活の様式に似ているが、その目的は文化秩序の維持ということになろう。ならば、そうした人間社会にとって当面の敵となるものは、現状に不満や違和感をもつ夢想家の反抗ということになるにちがいない。
 このように空想すれば、必然的に『ターミネーター』や『マトリックス』などの映画のストーリーが思い出されてくる。計画的な管理で成り立つ機械文明と戦う主人公たちは、生身の自分自身を自覚して取り戻すことで、地球による抑圧で成立する本来の不確定な自然の秩序へと戻りたいと願う。ただし、人は現状に不満を抱いたとしても、必ずしもその状況を外部から眺められるわけではない。たいていは、現状として取り巻くものの内部において、不満に対処するだろう。状況を外部から眺められるまなざしとは、その共同体に対して普遍的な観点から判断ができることを意味する。しかし、いずれはその延長において、人間の物語そのものが、おのれの根拠をめぐって戸惑いをおぼえるはずだ。家畜化されていた動物や植物は野生化できるだろうけれど、まさに家畜そのものでしかない人間が野生化するとは、どういうことなのかと。
 やや視点を変えてみたい。次の一文は、レヴィ=ストロースがインタビューで語った言葉である。「民族学者にとって神話とは何か述べてみましょう。南北アメリカのどのインディアンに『神話とは何か』と聞いてみても誰からも次のような答えが返ってくるでしょう。それは動物と人間が実際には区別されず、人の姿と動物の姿のあいだでどのようにもまた変えられた時代に起こったことの物語なのです。私たちにとってほとんど悲劇的ともいうべき真実とは、人間の条件には何かしら悲劇的なものがあると思うからですが、それは私たちが私たちと同様に生きていながら、意思疎通できないものたちと間近に接して生きている、ということなのです。神話の時代とはまさにそれが可能だった時代なのです」。
 ところが、先進国の現実を振り返ると、地球による抑圧から独立しようとする人間の条件の悲劇性こそ、人間の文化によって隠し続けようとされてきたとも考えられる。そうした文化観においては、人類は人間社会を中心にして生活を安定かつ向上させることを求めるため、協調性をおしつける一方で、自立という観念に価値をおく。その結果、魅力ある個性化は価値の高いものとみえてくる。同時に、かつてもてはやされた個性の価値凋落は必然であり、類似行為と本質的に異なるのだけれど、それは一般に普及することで、自立化の印象を喪失させられたと捉えることもできよう。エコロジー運動も例外ではない。地球の環境条件に対する人工的な改造にあせりを感じるのは理解できるが、その思想を美化して全体主義的になることで、極度の管理主義と潔癖な反浪費に陥り、次から次に取り組みを進めている。この事実は、地球の負担を増しているとしか思えない。今、地球にやさしいとは、人間の活動の速すぎる部分を見直すことではないか。あらゆる地域で地産地消が可能ならば、地球の意志の意味するものに、多くの人が気づけるだろう。それがすぐには不可能な時代だから、結局は政府と同様に経済力に頼り、ボランティアだけでは持続の困難な非営利な取り組みを、人を雇うことで忍耐強く続けているようだ。
 こうした文化観に支えられた社会で語り継がれる人間の歴史は、発明と破壊の繰り返しで表されるしかなく、そこには状況を外部から眺める真のまなざしは存在しない。だからこそ人々は、文学のなかにそのまなざしを期待したのではないか。
 さて、本題に戻る。一九二六年三月ごろ、金子夫妻は上海に一カ月ほど逗留する。谷崎潤一郎から添書きをもらっていたので、著名人との交流、中国人学者との会合など、現地では思いがけず歓迎を受けたらしい。また、蘇州、杭州、南京などを観光した体験をもとに詩篇をまとめ、金子光晴・森三千代共著として『鱶沈む』(一九二七)を後に出している。詩集の「小序」には次の言葉がみえる。
 「ゆきたくてならなかつた支那へ旅行して、加ふるに彼地の諸先生方と交友のつなをたぐることのできたのは望外のことであつた。その記念として貧しいながら私と妻と二人の旅中の詩作だけをあつめて、六日會叢書の第一篇に上梓できたことは、又このうへなきよろこびである」。
 上海旅行をおこなったのは、二人が出会ってから二年ほど経ったころである。その時分は、前年の八月の末に子の乾が悪性の乳脚気にかかったため、長崎の三千代の実家に三人で移住していた(約八カ月後の四月まで)。旅行後に上京しているところをみると、わがままついでに出かけていったようにも覗える。晩年の自伝的小説『どくろ杯』(一九七一)には、上海の印象を、混沌とした活気の面から記している。
 「陰謀と阿片と、売春の上海は、蒜と油と、煎薬と腐敗物と、人間の消耗のにおいがまざりあった、なんとも言えない体臭でむせかえり、また、その臭気の忘れられない魅惑が、人をとらえて離さないところであった。私たちは、日本へ帰ってからも、しばらくその祭気分から抜けられなかった」(『金子光晴全集7』より)。
 だが、前詩集『水の流浪』の売れ行きも悪く、財産もない夫妻にとって、詩集を出すことは容易ではなかった。『鱶沈む』は、『詩人』によると次のようにして出来上がる。
 「誰かが入れ知恵をして、みんなから本代を前にあつめて、自分で作れば、本屋に出してもらうより有利だと教えてくれた。金づまりもひどいので、馴れないことだが、やってみることにした。奉賀帳をもって文士達を、芋づる式にたずねて署名の上、本代の前金一円をもらった。やってみると大変な仕事だった。(吉田)一穂もいっしょにまわった日もある。結局、米塩と、途中の一休みで消えてしまう。友人の小山哲之輔が、代々木のへんで丁度、有明社という印刷所をはじめていた。その小山夫妻が引きうけて、本が出来た。二百部ばかりのうすっぺらな本で、本当なら五十銭位の本だったが、一円ずつ先に取ってあるので、その本でがまんしてもらった」(『金子光晴全集6』より)。
 おそらく、作家志望の妻の気持ちをいたわり、夫としては、なんとしてでも詩集を本にしたいと努力したのだろう。それでいて、詩集は共著となっているだけで、どの部分をどちらが書いたのかという説明はまったくない。この事実は、光晴と三千代の関係が、詩についてはまだ師弟の状態にあり、光晴が三千代を補助するような方法を選択したと考えられそうだ。こうした事情もあって、今回は金子光晴作と見做せそうな作品「莫愁湖」を挙げるが、その確証のないことを断わっておく。

 (略)曾公閣の壁は骨もあらはれ、
陽は、勾欄の卍を、淡く透して卓にさす。
土壌しめやかな前庭には、幾株の芭蕉が、
新しい巻葉を展ばす。

人の悲しみは、時の悲しみより大なるはない。
朱い羽根帽子をかぶつたわが女よ。私達にもいつかは
青春から去り、交渉から退き、あるひはまた、
全くこの生から互みに亡び去る時がくるのであらう。
熱茶をつげ。
莫愁湖の水は涸れて、
山羊の草を噛むひゞきのみ高い。
葦茂る洲のところどころに陽が徒らに悲しく、
蒼鷺がむれて、
長い羽を伸して翔びわたる。


いや、私の愁は、他ではない。
名をつけがたく、理由もない
いはゞ、宇宙の漠然たる憂愁、
生けるものなべてのいぶせさである。
白い鳥糞と枯葉、甍の間の鼬と、甍の蒲公英。
すたれゆく軒材のみぞの澤山な袋蜘蛛。

 「人の悲しみは、時の悲しみより大なるはない。/朱い羽根帽子をかぶつたわが女よ。私達にもいつかは/青春から去り、交渉から退き、あるひはまた、/全くこの生から互みに亡び去る時がくるのであらう。」、この寂しさには実感がある。曾公閣の荒廃と、前庭の芭蕉の展ばす新しい巻葉に目をとめ、人間のつくり上げたものと植物の生長の様子を比べつつ、二人の人間のつながりを、未来への変遷を主題にして心に描いている。ここにはまだ、夫婦関係の破綻を感じさせるものはない。その点で、時の流れだけには逆らえないことを、率直に歌っていると受けとめられる。詩人の成長という観点から述べれば、これまであまりみられなかった他者の存在が、具象的に読み取れるといえよう。
 それに対し、作品後半には次の言葉がある。「いや、私の愁は、他ではない。/名をつけがたく、理由もない/いはゞ、宇宙の漠然たる憂愁、/生けるものなべてのいぶせさである。」、この宇宙の漠然たる憂愁とは、自己がなにものかに放り出されて、無力感をおぼえるような感覚だろうか。自分がいるべきところにいないと思うとき、自分がやるべきことをしていないと思うときなどに、人は空しさを感じるだろうけれど、そうした自意識の働きさえ失って、いまだ生命が宿っている我が身の存在の意味だけを問うとき、とりわけ生物のいじらしい生き様が荒涼とした風景にしかみえない気分のときに、漠然たる憂愁が胸に沁みてくるのかもしれない。
 そうして、生物の行動の細部がみえてくる。「白い鳥糞と枯葉、甍の間の鼬と、甍の蒲公英。/すたれゆく軒材のみぞの澤山な袋蜘蛛。」、生物はすでに去り、いるものは隠れ、ひっそりと育っている。果たして、この事実は、詩人に何を教えたのだろう…。
 上海から戻ると、夫婦は子をつれて上京する。その後、詩では収入にならないので、小説の創作に心が動く。そんな折、横光利一の勧めもあって、賞金が三〇〇円出るという『改造』第一回懸賞小説(後の芥川賞)に応募する。「私は、上海を題材にした百枚ばかりの小説『芳蘭』を書いて、『改造』の第一回の懸賞小説に応募した。自信がないので、佐藤春夫と、横光利一に見せると、おそらく、これより以上の作品はあるまいと太鼓判をおしてくれたが、ふたをあけると、私の小説は、次点になっていた。懸賞の金で私は妻子をつれて渡欧するつもりだった。この空中ブランコの曲芸がみごと失敗したので私は、小説も放擲した」(『金子光晴全集7』より)。『芳蘭』は、上海の労働問題を扱い、女工とも娼婦ともつかない女のことを描いたものであった。
 一九二八年、夫婦関係は大きな危機を迎える。光晴の精神力が試された経験でもあるので、年譜を参考にして要点だけを以下にまとめたい。三月、生活苦打開との名目で、光晴は長崎の三千代の実家に子供をあずけ、国木田夫妻と上海を旅行する。約三カ月滞在し、帰途には子を連れ帰るが、その留守中、三千代は美青年と恋におちていた。光晴は妻を引き戻すが、三千代と青年の心は離れない。『どくろ杯』から引く。
 「彼女と、あいての男を私は、あいてが部屋住みということをいいことにして、ずいぶん苦しめたらしいが、私の受けた被害もたいていなことではなかった。おためごかしに彼女をもぎ離してきたものの、彼らの苦しみの目方が私のうえにもじりじりとのしかかる。(略)私の卑怯も、じぶんのおもい通り暴君のように振舞ったのならば、まだしものこと、自尊心や、面目や、要するに、彼女を愛すればこその未練でもない、他の思惑のために意趣を立てたまでのことのように、いまになってはおもわれる。(略)彼女は、恋人については、過去のこととしてしか語らなかったが、恋人に対する心情をいつわりかくそうとはしなかった。恋人と子供の愛情を秤にかけて、苦しんでいる彼女の沈痛な表情が、私をうちのめした」(『金子光晴全集7』より)。  六月には板ばさみになったままの彼女が猖紅熱で長期入院。生活苦と恋愛問題打開のため、光晴はヨーロッパ行きを提案する。九月一日夜に夫婦は旅立つものの、所持金は光晴の四円と三千代の一〇円のみであった(当時、長崎−上海間が一八円)。旅費が足りないので、名古屋に下車して新聞社に原稿を売りつけ、大阪では旅館に二カ月滞在し、ラジオ放送にも出演する。秋の終わりに長崎に着き(子を再びあずける)、一一月に連絡船で上海に渡る。在留日本人名簿作成や、上海風俗画の個展をおこない、旅費をつくる。一九二九年五月、上海から香港に到着。六月半ば、シンガポール着。七月にはバタヴィア(当時)に行き、一〇月半ばにシンガポールに戻る。一一月半ば、旅費が一人分しかなく、三千代を先にパリへと旅立たせる。一二月、シンガポールからマルセーユに出立。  東南アジアでの主な収入は、光晴の個展によるもので、その土地の風俗画や肖像画が多かったという。だが、ある日本人の商人から、「たくさんな絵かきさんがここへ来たが、金子さん。あんたぐらいへたな人もめずらしい」と会の乾杯のときに告げられたこともあった。現地のさまざまな日本人の引き立てによって、なんとか絵を買ってもらえていたというのが実状なのだろう。旅のこのあたりまでが、晩年に書かれた自伝的小説『どくろ杯』の内容で、その続きは『ねむれ巴里』『西ひがし』にまとめられている。  生物はすでに去り、いるものは隠れ、ひっそりと育っている。この事実を、生々しい生命力にあふれる東南アジアのジャングルを一人でさまようことで、自らの身体を傷だらけにしながら学び直したのではないか。それは、人間としての生き方を、反省する機会でもあっただろう。けれども、これから向かうヨーロッパには、貧乏人には避けられない暗い闇があった。その闇に捕らえられることで、金子光晴は自分のなかの何かを失い、保つべき何かを取り戻すことになる。彼は、はじめて自殺をおもい、踏みとどまったのだ。

(二〇一七年一〇月二七日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

>>竹内敏喜の詩を読んでみる

>>essays