今、詩歌は葛藤する 33
〜『水の流浪』、金子光晴その3〜
竹内敏喜
ドイツの生物学者エルンスト・H・ヘッケルは、進化論を背景に生物と環境の関係を研究する科学を提唱し、ギリシアのオイコスという語をふまえてエコロギー(英語ではエコロジー)と名づけた(一八六六年ごろ)。当時、ドイツ語のビオロギーには、生物一般を研究する学問としての広義の生物学という使い方がある一方で、生物と無機的・生物的環境との関連を扱う狭義の使い方もあったため、彼は狭義のビオロギーをエコロギーと呼ぶよう提案したのである。
武内善信の著作『闘う南方熊楠』(二〇一二)によると、この語を日本にはじめて紹介したのは三好学である可能性が高く、『普通植物生態学』(一九〇八)において「生態学(エコロジー)」と訳されている。ちなみに南方熊楠は、一九一一年に書いた手紙や新聞記事などにエコロギーの語を使用し、「植物所住学」、「植物棲態学」と訳している。両者を比較した場合、三好が「あくまで主眼は各種の生物にあり、その生物の生活の状態を研究した」のに対し、南方は「棲息空間全体の態様を究明すること」を意図していたと捉えられる。その認識の差は、三好の「名木や史樹の天然記念物保護」運動と、南方の「神社合祀反対による神社の森の保護」運動のように、微妙な違いを生じさせることになった。現在では、生態系全体の保護や地域の植物相全体の保護なしには、種の保護は実効をあげ得ないことは自明だとされており、南方の認識が再評価されている。
生態学の一般的な原理としては、全体を部分の総和に還元できないこと、生態系は有機物の生産量などからみて成長段階から安定段階にうつり、生態系の発達の過程で種の多様性を増し、それによりバランスと安定性が得られること、などが挙げられる。社会運動としてのエコロジーは、科学としての生態学とは別のものではあるが、生態系の構造に関する知見などの学問的成果は、エコロジー運動の考え方や取り組みの基盤になっている。しかしながら、生物の多様性保全条約を認めた「地球サミット」(一九九二)においても、生物の多様性の保全より、生物開発を利用した持続的発展を先進国は望んでいたと、市民団体は批判的に受け取っており、その構造はいまだに変わっていない。経済成長主義、競争原理の支配する現代文明は、汚染、貧困、差別、戦争などの問題を解決できそうになく、その成長の限界が指摘される近年、これに代わるものとしてエコロジー運動が掲げられたともいえる。それは、自分以外の多様な生命存在を尊重して連帯し、関係のつながりゆえに保証される生命のシステムの実現を、社会変革として目指している。
以上のように、生態学やエコロジーに関する資料を探ると、その思想や実践の広がりは二〇世紀の地球環境の急激な変化とともにあり、当然のことながら金子光晴の生涯と時代的に並行している。だからといって、直接的に影響があったとは、もちろん考えていない。ただ、三〇代半ばの彼は、東南アジアの各地で森林破壊や同一種の大量栽培など、西洋諸国による植民地支配の無惨さを目の当たりにして、現代文明の偽善性をいやというほど皮膚で感じとり、一時的に社会主義思想に深入りしている。人付き合いは悪くないけれど、社会運動を起こすほどの行動力や気力はないため、弱い立場の人々を同情しつつ眺めるだけだったようだが、あちこちで出会う最貧困の人間の傷めつけられた畸形な肉体には、どうにも心惹かれたという。それは、何にでも触りたいという自らの性癖に引きずられてのことらしい。そのように、現地での威圧的な全体主義的侵略に対する怒りは、当時の日本国内では学べないものとして彼の世界観を大いに成長させ、人と人の利害関係を、利己心なく見分けさせるようになる。この点については、戦争観や恋愛観に如実にあらわれるため、次回以降に詳しくふれるつもりだ。ともかく、三〇歳前後の彼は、ヨーロッパ文化の流入による明治・大正の社会的大変革のなか、一九二三年の震災後には自己の生活の基盤を完全に見失い、すがりつくように詩と向き合っていた。
「うらぶれて、ゆくあてもなく、さすらいながら、東京へ舞いもどってみても猶更なすすべないままに僕は、一日でもながく関西の土地を流れあるいていたいとおもっていた。そして、そんなあいだに、『水の流浪』の作品が殆ど完成した。それは、僕の流離の書で、作品としても弱体であった。『水の流浪』は、『こがね蟲』のおちぶれてゆくあわれな道すじであったが、僕の苦しさは、じぶんの落魄をじぶんで納得して甘受しなければならない仕儀になってゆく気弱さであった。そこに当時の芸術派共通の悲しみがあった。(略)『こがね蟲』『水の流浪』も、考えようによっては、がらくた舟だ。享楽主義と、神秘主義と、ふるめかしい人情主義が、最後の言いわけのような虚無思想のうえに宝船のように乗って、あぶない航海をつづけているといったまでのものだ」(『金子光晴全集6』より)。
詩集『水の流浪』は一九二六年に刊行されるが、この引用でもわかるように、一九二三年にはほぼ完成していた。ところで、『水の流浪』に至る前に、次の事件が起こっている。同じく『詩人』から引く。
「『こがね蟲』の多彩にくらべて、それ(『大腐爛頌』)は黒白であった。この詩集は、『こがね蟲』と同時に、あるいは、すこしあとで出版する計画であった。『こがね蟲』とその詩集を併せよんで、光と影の二つのトーンによって僕というものを認識してもらいたかったのだが、『こがね蟲』の出版に先んじて、僕は、なにかつまらない考えごとで放心していたために、常に身辺から離さなかったその草稿を包んだ風呂敷包ごと、電車のなかに置き忘れた」(『金子光晴全集6』より)。
結局、その草稿はみつからなかった。金子光晴には未刊詩集が少なくなく、それらは全集および選集編集時に収録されている。『大腐爛頌』についても、後に記憶によって再構成されたものが掲載された。「すべて、くさらないものはない!」というフレーズが印象的に繰り返される表題作のほかにも、力作長編がいくつかあり、習作扱いの小品も数点みられるが、漢字を多用した『こがね蟲』や『水の流浪』の硬質な文体とは異なり、軽やかな流れをともなった『赤土の家』の口調に近い。内容的にはニヒリズムの色合いが濃く、思考の産物であるという点では、抽象性が強いようだ。
さて、一九二六年一二月に『水の流浪』が発表されるまでに、詩人の身辺は根本的に変わっている。一九二四年一月、関西から都内の借家にうつり、三月には作家志望の森三千代の訪問がある。その年の七月、三千代と結婚。彼女は東京女子高等師範の学生であったため、妊娠が知れた九月に退学した。一九二五年三月には子も生まれるが、収入といっても翻訳などの原稿料くらいしかなく、家賃がたまっては追い出されたり、夜逃げをしたり、知人宅への寄食を繰り返している。また、夫婦はその後も放浪つづきだったので、その間は三千代の両親が孫の世話をしていた。このように辿ると、富裕だった義父の死後は、財産喪失、地震被災、原稿紛失と不幸つづきだったとはいえ、家族を得たことには明るさがみられよう。だが、この家族の存在こそが、後に真の苦悩の味を彼に教えることになる。
今回は、生きる苦しさを反映させた作品として、「水の流浪」を挙げる。長くなりすぎないように、散文で記された前置の前半を、残念ながら省略した。なお、詩集には自序が付されているが、『こがね蟲』の自序の絢爛さとは打って変わり、「詩人と銘うたれて、をこがましい次第であるが、又こんな本を出すことになつた」とそっけない。三一歳にして生活の手段が見当たらない男にとって、詩にかかわることは、人前で胸を張れる話題ではないのだろう。彼はこまめに有名無名の詩人と付き合っていたから、詩作が収入の方法につながるとは考えていなかったにちがいない。しかし口ではなんといっても、詩人であることは自分にとって大事だと、彼は心から信じはじめていたと思われてならない。
(略)
水は又、陸を離れ、遠くさびしくゆく。びろうどの帯の海蛇の幾町とつづくうねりをなして、重く、はてしない因果律をつづけてゆく。海水は霧となり、筋となり、急ぎ、うち、誘ひあひ、その水の虚に、花傘海月(くらげ)や、夜光蟲をかざりつつ、淡く、深く、緑になり、紫とかはり、虚空となり闇となつてゆく。ああ、海水の色には熱がない、熱がない。たゞ感情の淡い悲と咏歎と、疲れが聲を立ててうつつてゆく。そこに咲くすべての生活は、皆一つの哀歓と流浪であつて、帰結もなく、出立もない旅の旅である。
定着もない憂愁と心易さに、すべてが一様に流されてゆく。おゝ、わが悲しい水の 流浪よ。層の層よ。大きな潮の洞穴よ。そして、私、私の生活は、いつもこの美しい漂浪の息をきく。
この作品中の「およそ、疲労より美しい感覚はない。」という一行ほど、金子光晴らしい言葉はないと、筆者は感じる。この詩句を独立させて、肯定的に理解するなら、自分の仕事を達成感をもってやり遂げたときなどに、こうした感覚を味わえるはずだ。その意味では、人間であることの歓喜の証しとも思われる。けれども、疲労を美しいと身体的に受けとめられるのは、主に体力に余裕のある若いときだけかもしれない。もしくは自分のライフスタイルの変化をおそれない人物にも、当てはまるだろうか。なぜなら肉体の老いを知るころには、疲労は少しばかりこわいものとなり、自分の習慣を持続すること以上の期待を、日常に持たなくなりがちだからだ。そして代わり映えのしない生活では、美を見出す能力も衰えてくる。その衰えは、不健康な疲れを慢性化させるにちがいない。
金子光晴の場合は、そういった発想ではないだろう。作品全体を見渡すと、「人生は花の如く淋しい海の流転である。」を土台として、生命とは水の感情であると仮定し、さまざまな人間的場面を悲劇的に描いている。その果てに、「灰色の岩礁に、感情はすべて死にはてた。/そのとき、私は孤、松籟により、/愛執と別離の淵源の愛をきく。」との見極めの断言を導いている。この最後の「愛」は「淵源」なものとされているが、その「淵源」さとニュアンスを同じくするものこそ、「疲労より美しい感覚はない」ではないか。
前々回の論で、「印象をあらためて確認すると、『ゆれ』は存在物の無垢さを形容するものとして、『海』は存在に対し永遠に活動するものとして、『労れ』は『私』の弱さという性質として、特徴づけられるかもしれない。換言すれば、『海』はまだ『私』とは疎遠なものであり、『ゆれ』てみえる対象ではないと捉えられよう。この距離感で『世界』が成立しているわけだから、『理由』という人間中心的な見方により、未知の自然現象を畏れつつ共感していると、受け取れないこともない」と想定した。
この見方を、作品「水の流浪」をふまえて補正すると、「ゆれ」は「美しい感覚」へと至るべきものとして、「海」はやはり永遠に活動するものとして、「疲労」は「私」の限界を知らせるものとして、特徴づけられそうだ。これだけでも認識として進展したと考えられるが、それだけでなく、「私」は「愛執と別離の淵源の愛をきく。」という一節を得たことで、「世界」を見届ける「理由」が思想的に柔軟になり、同時に「私」も水の流れの一部であることを、「海」を客観的に眺められることで受け入れられたと判断できよう。
この距離感は、「自分以外の多様な生命存在を尊重して連帯し、関係のつながりゆえに保証される生命のシステムの実現」に近いような気もする。金子光晴の他者とのかかわり方の軽やかさは、しだいに身についていくようにみえるが、観念的には早くから辿りついていたのかもしれない。それはむしろ若さにとっては苛酷な重荷となっていたはずだ。
竹内敏喜(たけうち・としき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)