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今、詩歌は葛藤する 31
〜『赤土の家』、金子光晴その1〜

竹内敏喜

 「僕の処女詩集は、ほんとうは『赤土の家』だが、この本は、あまり時が早すぎて、世評にのぼるという自信ももたず、ただ詩集を出すことで、この先もつづけて詩を書くか書かないかの決意をためすというような気があった。結局、詩は書きつづけないことにして、ヨーロッパに発った。(略)費用は当時の金で五百円かかった。教員の給料四十円の時代の五百円は、大金であったが、出来た本は、若干寄贈しただけで、売り方もわからず、おそらく一冊もうれなくてのこったものであろう(略)。『こがね蟲』の出た時の方が、むしろ、処女詩集のような欣びがあった。作品にも自信がもてたためがあるかもしれない。しかし、今日の歳になっては、別にわけへだてはない。(略)どっちも、じぶんとは関係のない程遠くの方にいる。何十年、よみ返したこともない。手許に本がないからと思っていたが、全集が出て目の前においてあっても、格別よんでみたくもない」。
 この一文は、『金子光晴全集8』の「随想拾遺」中に掲載されているもので、初出は一九六七年二月の「南北」となっている。略した部分から補足すると、『赤土の家』(一九一九)は自費出版で五〇〇部つくられたらしい。同様の内容は、自伝と称されている『詩人』(一九七三)にも描かれている。
 「顧みると、僕の青春は、たださわがしくて、底が浅く、その上光りが足りなかった。することはなにもかも中途半端で、一物をもえず、半生をむなしくわるあがきをしたという感がふかい。そして、僕ほど、馬鹿正直に、時代の表相に翻弄されるがままになり、頑なに主張し、そのために若い日の生命の実体をおろそかにしたものも珍しいかもしれない。書いたものもすべて、空虚なお題目に終った。濁流に流されながら僕は、文学という浮華な板子にすがりつき、虚栄心一つで詩をつくるまねごとをしながら、冥々としておしながされていただけであった。そして、それらの無自覚な作品をひろいあつめて詩集にまとめ、『赤土の家』と名づけて、自費出版した」(『金子光晴全集6』より)。
 個々の作品の制作時期をふまえて正確に捉えるなら、『赤土の家』成立以前につくられた作品が、後年に『香爐』(一九四六)として一冊にまとめられている。しかし詩集を上梓する際の意図を考慮した場合、『香爐』には初期習作としての資料的価値を主に認めるべきかもしれない。そのため、これから金子光晴の詩集を順にみていく予定だが、『香爐』については、詩集としての言及はしないことにする。また、本人の発言を信用すれば、『赤土の家』の次に出された『こがね蟲』(一九二三)こそ、処女詩集らしい充実感があったとされている。『赤土の家』が本名(金子保和)で発表されたのに対し、金子光晴の筆名が、詩集では『こがね蟲』においてはじめて使用されていることからも、なんらかの決意があったと判断できよう。それに比べ『赤土の家』は、出版後の数日で真っ黒になるまで作品に筆を入れ直したと詩人は述べており、以上からも、二〇代前半の時点では、詩の表現方法がそれほど確立されていなかったと、考えられる。
 ここで、最初の詩集を出すころまでの金子光晴の生い立ちを簡単にまとめておく。一八九五年一二月二五日生まれ、大鹿保和と名づけられる(戸籍上は安和になっている)。一八九七年一〇月、金子家の若妻の目にとまり、養子となるが、人形のようにきまぐれに扱われたという。成長するにつれ、学業には身を入れず、遊蕩に陥る。一方、読書は好み、学生時代は中国古典や江戸時代の稗史小説を集め、やがてワイルドやボードレールなどの耽美的なものに惹かれるが、しだいに日本の民衆詩派、ホイットマンなどのデモクラシー思想に影響される。一九一二年ごろから文学創作に熱中、友人と同人誌などをつくり短編小説を掲載。一九一六年、保泉兄弟との親交を縁に詩作をはじめ、三〇篇ほど創作、その片鱗は『香爐』に残る。この年の一〇月に養父が死去し、遺産二〇万円を養母と折半。当時としては一生を過ごせるほどの大金を手にしたものの、さまざまな事業を試み、だまされるなどして財産のほとんどを浪費する。一九一九年、『赤土の家』刊行。
 さっそく『赤土の家』から一篇、「海の言葉」をみてみたい。

私を組立てると同じ理由がこの世界をも組立ててゐる。
この世界の皆を組立ててゐる。

皆の健康な身體を組立ててゐる。

この偉大な……(ありふれた)秘密を知らうとして私は、
どれ程、鍵穴を探したらう。

どれ丈、長い間を、不思議さうに、気味悪気に、青空の瞳の奥をのぞいて居たらう。

どれ丈、
無心にゆれてゐる草の葉などに、心をとめて見入つてゐたらう。

この、溢れ立つ胸に、どれ丈の、波頭を、飛沫を見送つたらう。

私は、
裸な岩のうへに、
いざり寄ることも許されない思念に囚はれたまゝ、坐つてゐた。

私は、恐ろしく熾んな薫気を、海から、吸ひあげた。
幸福を、掌中ににぎることができた。

瞬間!
おゝ
この美くしい世界に私が、亡びてゆかないものであると知つたそのとき、

あらゆる貪欲が、最良の方法によつて、飽満されずにして、すでに、みたされたとき、

私を組立てると同じ理由が、この宇宙をも組立てると知つたとき、

探索に労れた私の瞳の奥に、

海は、第一日の哄波を、汎く、とゞろかせた。

 この作品を読むと、金子光晴にとって生涯のモチーフとなるいくつかの単語が、まだ詩人の強烈な自我の手垢のつかない状態で、使用されているように感じる。それらは、彼の読書体験などから抽出された姿をさらしているとも考えられ、それゆえに作者の憧憬の方向を教えてくれる。端的に述べれば、その観念性は、未知である海へのロマンチックな夢想のようなものであろう。彼の好むだろう単語を具体的に取り出すなら、「ゆれ」「海」「労れ(疲れ)」などがあり、さらには「世界」を挙げても良いと思われる。けれども、これらの単語の秘めている意味が重ねられるとき、ここでは「哄波」という語に至らざるを得ず、それだけでなく「哄波」のニュアンスは他者のように独立し、この詩人の影としていつまでも彼につきまとっていった気もする。
 仮に、「第一日の哄波」を、世界のあらたな始まりに訪れる、大声で笑うような波のことだと理解すれば、禅的世界観に近いものとして、すべてが満たされているがゆえに本来無一物という開放感および諦観を、連想させられないこともない。大声で笑う波は、存在するものとしての「私」を少しも重要視していないと同時に、さらに目覚めよと諭しているようにも思える。しかもそれは、「私」の「瞳の奥」においてとどろいているのだから、「私」の自我の方も、ちょっとした反抗心をちらつかせているようだ。これらの観点をふまえて、「ゆれ」「海」「労れ」および「世界」などの概念の、今後の独自な思想的成長が、逆に彼の人生観を支配したと想定してみても、あながち間違いではないだろう。
 参考までに作品に対する一つの解釈を示してみる。冒頭の「私を組立てると同じ理由がこの世界をも組立ててゐる。/この世界の皆を組立ててゐる。//皆の健康な身體を組立ててゐる。」との一節では、「理由」という視点および「健康」という枠組みが提出され、その発想によって、作品の芯が支えられていく。それは、「私は、恐ろしく熾んな薫気を、海から、吸ひあげた。/幸福を、掌中ににぎることができた。//瞬間!/おゝ/この美くしい世界に私が、亡びてゆかないものであると知つたそのとき、」のように、嗅覚を通しての世界との一体感へと導き、「私」と「世界」との関係に、存在の普遍性という実感を見出させる。つづいて、「あらゆる貪欲が、最良の方法によつて、飽満されずにして、すでに、みたされたとき、//私を組立てると同じ理由が、この宇宙をも組立てると知つたとき、」との詩句では、存在の普遍性に生理的な快楽の洗練が重ねられ、個として存在することに宇宙的な高揚をおぼえるが、そのときこそ、「探索に労れた私の瞳の奥に、//海は、第一日の哄波を、汎く、とゞろかせた。」と、「私」としての限界を視覚において突きつけられてしまう。
 末尾の一行から海の言葉を拾いあげるなら「哄波」だと、ひとまずいえる。だが、この作品に登場する「私」とは、単に夢想しているだけの人物だろうか。自分を組み立てている理由が宇宙をも組み立てていると知ったとき、「私」は積極的に想像力をはたらかせ、海そのものになっていた時間もあったはずだ。その感覚は作品のあちこちにみつけられる。例えば、「青空の瞳の奥をのぞいて居た」、「草の葉などに、心をとめて見入つてゐた」、「溢れ立つ胸に、どれ丈の、波頭を、飛沫を見送つた」、「裸な岩のうへに、/いざり寄ることも許されない思念に囚はれたまゝ、坐つてゐた」などは、海の立場からの吐露とも思われる。そのうえで「私の瞳の奥」に、「海は、第一日の哄波を、汎く」とどろかせたのだから、思想的前提であった「私を組立てると同じ理由」や「皆の健康な身體を組立ててゐる」の意味に、未知なる強い力が加わったと受け取るべきだろう。もしかするとその自覚が、「瞳の奥」をふさわしい場所として選んだのかもしれない。少なくとも「私」は、「青空の瞳の奥」を覗いていた人物なのだから、海に自分の「瞳の奥」を覗かれることは、自己の無意識の探求ともみえる。そこは健康とは異なる位相にあると考えてみても良い。
 こうした読みのもと、「ゆれ」「海」「労れ」の印象をあらためて確認すると、「ゆれ」は存在物の無垢さを形容するものとして、「海」は存在に対し永遠に活動するものとして、「労れ」は「私」の弱さという性質として、特徴づけられるかもしれない。換言すれば、「海」はまだ「私」とは疎遠なものであり、「ゆれ」てみえる対象ではないと捉えられよう。この距離感で「世界」が成立しているわけだから、「理由」という人間中心的な見方により、未知の自然現象を畏れつつ共感していると、受け取れないこともない。いずれにせよ、後年の金子光晴の生々しい触感が想像できないほど、初々しい世界観だ。ただし、「瞳の奥」が詩の醸成する場所として、すでに発生しているのを見落としてはならない。
 ところで、当時の作者が地球上の生物の経てきた歴史について、どれほどの学問的知識をもっていたのかわからないが、根本的には知ることが不可能な出来事だと見極め、この作品では生物の起源についてあえて問わなかったようにも感じる。だからこそ、ここに始まりを定めることができると、詩人の自負は「哄波」の前に立つ意志へと方向転換したのだろうか。比較すれば、ノア(方舟)の前の洪水に似ていないこともないけれど、やや芝居がかっているため、喜劇的にもうつる。こうした神話的な抽象性は、この時期の彼の趣味と調和しており、絶対の美を手中にすることを何より求めているようでもある。
 とはいえ、これは現実の彼の姿でもあった。これから、社会という大波を前にして、極度の貧乏生活や、放浪に近い旅を味わう運命にあったからだ。そのなかで、美を感じ取る視線は、崩れそうになりながらも変化していくことだろう。とりわけ絵画的素養のあった彼は、詩の練習として、言葉によるものの写実を繰り返しおこなっている。『赤土の家』が、社会的なデモクラシー運動の影響のもと、思想的な面からものをみつめ、抽象的な表現に陥っているのは事実である。それゆえに具象性への可能性を、空想的にでも探っておきたい。詩にとって、抽象性や具象性のあらわす効果が何であれ、この両者のぶつかりのなかで、金子光晴の詩業は奥行き豊かなものになったと、筆者は考えるからである。
 具象性とは、形態がそのまま命である。それこそ形態というものが気になると、どんな生物を観察してみても、理由のわからないフォルムの完成度を前にして、驚かされずにはいられない。生物の発生の源は海だという説が有力だが、その後の生物の種には、すさまじい変化の過程があった。その変化により、世界は現在のように整えられたともいえる。これについては、今西錦司が重要な指摘をおこなっているので、要約して引用したい。
 …生物が変わるということは、生物の属性である。だからといって生物は好きなように変わっているかといったら、そうではない。なぜかというと、地球上のすべての生物は、もと一つのものから生成発展したものであり、そこに始めから、一つのシステムとしての相互適応が成り立っている。相互適応が成り立っているということは、そこになんらかの調整があり、抑制がはたらいているということである。したがって、自然の生物を自然から取り出して人間のもとにおくと、今まではたらいていた自然の抑制、あるいはシステムの抑制というものがなくなる。そこで生物はその属性を発揮して、自然状態では絶えてみられないようないろいろな変異をあらわしてくる。例えば栽培植物や家畜にはいろいろな品種がつくり出されている。あんなのを自然界に戻してやっても、たいていはうまく暮らしていけない。それがもう一度野生化して、もとの種に戻ったら、生きていけるだろうが。だから、人間のコントロールのもとで、あれこれできたとしても、自然においておこなわれているという証拠にはけっしてならない…。
 地球上の生物には抑制がはたらいており、秘めている属性が発揮されるためには、特殊な環境の持続が必要らしい。つまりそれは、人工的な技術の組み合わせによって危うくもバランスを保っている世界像のことだろう。変化が地域ごとで留まっていた間は、全体にとってまだ大きな問題とならなかったが、一八世紀後半に起こったイギリスを中心とする産業革命の、手工業から機械工業への変化のように大規模になることで、人間のための世界が、地球による本来の抑制を排除してしまった(ようにみえる)。それはもはや、地球にとっての正しさとは関係のないものである。その結果、先進国での現代人の生活では、健康(健全性)は金銭によって買うものとなっている。現代人は、地球の自然に則ってではなく、放たれた自己の属性に基づいて維持されるため、健康を買い続けることでしか自己を評価できなくなってしまった。金子光晴のなかの抽象性は、この点を批判していたのかもしれない。そこで彼の直感は詩を救うために、具象性としての自然状態に近づいていったのではないか。強引ではあるが、そのように読むのが今は正しい気がする。

(二〇一七年八月二三日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

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