今、詩歌は葛藤する 30
〜『天野忠詩集』、いじらしい生命へのあきれ顔〜
竹内敏喜
学生のころに古書店で購入し、その後も手近に置いてきた一九七四年発行の『天野忠詩集』(永井出版企画)を、久しぶりに再読した。初期詩篇の集大成であるこの書物は、詩集『石と豹の傍にて』(一九三二)以降の一三冊の詩集から選択された作品が収録されており、五五〇ページの大冊である。あわせて、大野新の解説「年譜をなぞりながら」は、大変ていねいに著者の姿を描いている。天野忠の詩に触れるには、思潮社から出ている「現代詩文庫」が手軽ではあるが、そこには戦前の作品は選ばれていない。それは、一九〇九年生まれのこの詩人にとって、二〇代に書いた作品が並んでいないことを意味する。
しかしながら、年譜によると彼は一〇代半ばの学生のころ、校友会誌に初めて小説を書いて一等賞をもらい、その数年後には散文詩のようなアフォリズムのような作品を発表しただけでなく、就職してからも『キネマ旬報』に映画評論を寄稿するなど、ちょっとした秀才であった。また、最初の詩集『石と豹の傍にて』の時点で、詩作とかかわって少なくとも五年は経過していると判断できるが、この五年という時間に注目するなら、集中した幸福な研鑚がなされたと想像できよう。一般に、詩人の出発点を探ることは、その詩人の個性をより明らかにするといわれるけれど、この第一詩集は後年と異なる高踏的な作風を示すという点からも、やはり目を通しておくべきだと思われる。
一九三二年といえば、満州国建国宣言の年であり、五・一五事件が起こっている。翌年、日本は国際連盟脱退を通告、海外に目を向けると一九三四年にドイツでヒトラーが総統兼首相となった。そうした一九三四年に第二詩集『肉身譜』が刊行され、次の『小牧歌』は戦後の一九五〇年に出されている。この両者を隔てる約一六年間の同人誌活動をみると、一九三七年以降は戦後まで詩の発表をほとんどしていない。外的な理由としては、社会主義的リアリズムを標榜する文芸誌にかかわっていたことで、彼もブラックリストに載せられるほどの国家権力による弾圧があったことが挙げられる。あわせて、そういった時節前後に、すべての肉親を次々に失うという不幸が重なり、彼は極度の神経衰弱に陥ったらしい。ちなみに徴兵検査は虚弱なため丙種不合格であった。
このように、彼が初期の詩集をまとめた時期は、時代の大きな変化が目前に迫ってくるという緊張感とともにあった。その不安としかいいようのない気分は、戦後数年を経ても消えずに続いていたようで、彼は結婚後も何度となく転職している。こうした事実を踏まえると、自分の危機意識に向き合うなかで、出来事の事後ではなく事前に、まるで遺言のように作品を残そうとしていた可能性も否定できない。
今回の拙文では、戦前の二つの詩集から任意に詩を選び、天野の詩の特徴の一端を探ってみたい。ただし、対照性の際立つ詩篇を選んだこともあって、実証性に欠けることは否めないだろう。まず、それぞれから一篇ずつ引用する。
はじめに全体の印象で比較すると、「石」における私は受動的で、「笑い」の私にはいくらか能動性が感じられる点に、ひとつの大きな違いを指摘できる。さらに細かくいえば、「石」では私の受動性のなか、包まれること以上に、包まれて燃えることを積極的に肯定しており、「笑い」では私が自分の体臭に能動的に覆われることにより、主人として落ち着いた気分になったことを消極的な笑いにしている。こうした見方を取ると、自意識の占めようとする位置は、二つの詩でまったく異なってみえる。
だが、そもそもの私のおかれていた境遇が違うことを忘れてはならないだろう。寝転んで苦悩の襞を数える私と、ひっそりと雅やかなところに佇む私とでは、同一人物でも感情の働き方が同じでないのは当然である。そうしたことを踏まえて、作品の流れを追えば、やがて「石」では愛を思い、「笑い」では哀しみを思っていることに気づく。つづいて、愛は典籍というけだものを呼びこみ、哀しみは自分の体臭を見出す。それらは、おのれにとって、もっとも身近にあるはずのものであり、あるいは自分を閉じ込めるものともいえる対象だ。だからこそ意志は、なんらかの反発を自覚したのであろう。実際、末尾の一行では、いずれも私の内面の動きを表現しているが、自己の解放を望むかのような内容が描かれている。このように、作品の構造からみると、二つの詩は似ているとも捉えられる。
次に、言葉の質感について考察してみる。一例として「石は私を包む」と「私の皮膚を着る」という一節を、それぞれから引き抜いて比べると、いずれも効果的な比喩だが、後者が肉体感覚に訴えるのに対して、前者はあくまでも観念性が強いように思われる。換言すれば、前者の方法は、日常的な身体感覚を超越しようとする創作意識から導きだされた成果ではないか。第一詩集の他の作品が、すべてこのような作風ではないとはいえ、おおよそは認められる傾向かもしれない。
この点に関して、大野新は解説で、第二詩集は「意味や抒情が、象徴や感傷の助力を要しなくなったと同時に、天野忠の非常に私的な分身が意味を砒素のように食べはじめている」と述べている。そして「砒素のように」という表現について、「負い目が、自慰的にかつ自縊的に課してくる運命のようなものを、なだめたり、すかしたり、おどしたり、韜晦させたりしているうちに」と具体的に説明しつつ、ここに後年のユーモアの方向があらわれたと指摘している。これは作者において、自意識による何らかの克服があったことを示しているが、そこに創作活動がどのようにかかわっていたのかは、想像するしかない。
ここで例えば、克服前の自意識の性質と、作品における観念性とのつながりを調べてみるのは、ある道筋になるかもしれない。「石」という詩は、その面についてもわかりやすく教えてくれる。とりわけ作品冒頭部分の、質実、失意、責苦、といった内向的な意識を形容する、冬にある、和やかな、柔らかな、という包みこむ優しさにあふれる感覚、こういった異質なものをぶつけての多層性こそ、作品としての観念性を成立させるものであり、それは、若き詩人の前に苦悩の襞を現前させずにはいないだろう。その魅力に惹き込まれ、理想の愛の姿を見定めようとするとき、石(物ゆえの真理?)とともにある愛を選ぶ者として、冷たいけだもの(権威?)にみえる典籍に、価値をみつけることは困難になる。
とはいえ、石のなかでの燃焼を夢見る私とは、観念的な私でしかなく、それは典籍であることと同じではないか。そうした作品を書き続けることは、私にとってどんな価値があるのだろう。作者に、こうした葛藤が生まれたかどうかはわからないが、あらためて「笑い」と読み比べると、後者では、雅やかなものに背を向けて、自分の皮膚(弱み?)を受けとめようとする私の像が浮かび上がってくる。これは、理想の断念とも考えられよう。けれども、作者は私を着ることで、次なる詩を書くことができたのだと思われる。
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以上は、『ムーンドロップ』一四号(二〇一一)で天野忠特集が組まれた際に、「天野忠の戦前詩篇について ——「石」から「笑い」へ」として掲載されたものである。今回、興の向くままに『天野忠詩集』を開いていると、かつて記した自分の文章も確認したくなり、読めば手を加えたくなって、やや加筆訂正したものをここに再録してみた。紙幅の制限もあったため、「次なる詩」への一歩を示唆する時点で原稿を終えてしまったのは、いささか心残りだったが、冷静に考察し直すと、戦前の第二詩集と一九五〇年に出された第三詩集との比較こそが、「次なる」を具体化する重要なものだと思われてくる。
あわせて見落としてはいけないのは、国家権力による彼への言論の弾圧や、すべての肉親を次々に失うという不幸のなかで、極度の神経衰弱に陥ったにもかかわらず、その後も詩を手放さなかったことだ。その彼のこだわりとは何だったのか。もちろん、当時の国の状況を考えれば、思想的弾圧に対して恐怖を抱いたとしても、詩そのものに絶望するとは限らない。だが、人間に対する信愛の情は、少なからず否定的な色合いへと変化しただろう。そうした特徴なら、『小牧歌』のなかに容易にみつかる。作品「夏」を挙げる。
ここでの文体をみると、これまでの彼の作品と異なり、露悪的なのは明らかだ。牛にしろ坂にしろ婦にしても、理念的な完璧さからは程遠いものとして、世界のなか、飾らない自然体をさらしている。そうした光景を、詩人はどうして描く気になったのか。おそらく、これを夏の現実感だと認めないわけにはいかない、と思ったからだろう。その意味でなら、作者の意識は作品の意図と直結しているはずだ。つまり、牛への反感であるだらしなさは、そこに目が向く自分の内面にもあり、婦のあらわな乳が印象的なのは自分が男だからである。このように辿ってみれば、坂について異様な形容がなされている訳も解けそうだ。
仮に、この坂を自意識の表象化だとすると、最初に「坂の上で眩く 向日葵がはじけている」のは、牛と比較して自分は礼儀をわきまえているとの意識を主張したいためであろう。しかし、「あらわな乳の婦が/藁の匂いして のっそり厩から出てきた」のをみかけることで、人間もさほど牛と変わらないことや、にもかかわらず向日葵よりも乳に目が惹きつけられることで、自己の本性を知らされ、「坂は長々とひび割れ のけぞりかえり……」のように、内なる美意識のもろさを告白せざるを得なくなる。そうして、「牛はぐったりとまなこ閉じた/それから/灼けつくような糞をたれた」ことを、なんの批判もなく受け入れるしかない。これはむしろ自由な状態ではない。ここには悲劇も喜劇もなく、神のようなものは完全に消えてしまっている。一種の抑圧のもと、存在するものの不幸な平等感覚がむきだしになっており、あえていえば、人間的なものから遠ざかっている。
ところで第二詩集について、「作者は私を着ることで、次なる詩を書くことができた」との観点を述べたが、社会情勢が不安定であったにもかかわらず、詩人の心が文学に向き合おうとしていたから、それは可能であった。その点、第三詩集では戦後社会のなかでの個人の不自由さが明確に認識されており、この不満が、対象の本質を捉える際に醜悪な面を強調させる結果になったとも考えられる。理念的なものを信じられなくなった者にとっては、逆に現実における欠落こそが、描くに価すると感じられたのだろうか。だが、その心境の奥に、完璧という美を失った世界への、憐れみの情があったように思えてならない。
いずれにせよ、その後の天野の作品をみると、いじわるさ、やさしさ、せつなさが絶妙に構成されている。それは一人の人間にとって、成熟と老いの問題でもあっただろう。自己の老いを直視するとは、自分に時間的な先がないと理解することだ。その覚悟なら、彼は二〇代から知っている。…すべての身内を失った者が遺言を書いたとして、だれに届くのか。それでもだれかに届いてほしいから、私の詩を書いた。やがて結婚して子も育ち、自分にも届け先ができた。だが老いてしまえば、遺言を残すのがバカバカしくなる。私は私を着る必要がないほど、私を使い込んだのだから… いつしか、「私」とかかわりなく世界が存続することを、気負いなく捉えられる方法も身についていたのだろう。
晩年の詩集『掌の上の灰』(一九八二)から、作品「女」を引く。
空想的な紹介文となったが、天野忠の詩の変遷のおもかげを感じていただければ幸いである。作品「女」にも、風刺など超越した、いじらしい生命へのあきれ顔がみえてくる。それにしても、こんな京都のバスに高校生のころまで馴染んでいたから、無性に懐かしい。
竹内敏喜(たけうち・としき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)