今、詩歌は葛藤する 29
〜『フォルマ、識閾、その歩行』、全体的な真が存在するなら〜
竹内敏喜
精神分析学や心理学に関しては、フロイトやユングの著作をいくらか読んだ程度なので、現在における学問的達成についてはまったく知らない。興味がないわけではないが、この分野に対して、なんともいえない違和感を覚えるため、なかなか手が出せないままでいる。確かに、類人猿的祖先から受け継いできた本能のようなものがあるだろうし、現代の人類にまで作用している未知の力はあるはずだ。その力についてなら、何よりも知りたいと考えないこともない。しかし、人間社会の文化的影響によって身心に症状が起こり、それを、神経症や分裂病と名づけて治療する一連の行為には、どことなく退廃的な印象がつきまとう。まるで、その当事者の人生の外側の密室で、患者と医者が壊れやすい物語を演じさせられているかのようだ。もちろん実際は、そうとう深刻であろうし、単純にわりきれる問題ではないと承知している。
ユングは自己の思想の背景について、『無意識の心理』(一九一六)で次のように述べている。
「人間には二つの目的がある。第一の目的は自然目的であり、子孫を生み、これを養い育てるのがそれで、これにさらに金を儲けたり社会的地位を得たりするという仕事が加わる。この目的が達成されると、別の段階が始まる。それは文化目的の段階だ。第一の目標の達成には自然と教育とが力になってくれるが、第二目標の達成にはわれわれの力になってくれるものはまことに少なく、皆無だといってもいい。その上、年寄りも若者の如くあるべきだとか、内心もはやそんなことの価値を信じることも出来ないのに、少なくとも若い者がやるのと同じことをやるべきだというような誤った見栄がはたらくことがしばしばある。だからこそ実に多くの人間にとって、自然段階から文化段階への移行がひどく困難かつ苦労になるのである。彼らは若い頃の錯覚にしがみついたり、あるいは彼らの子供にしがみついたりする。そしてそんな風にしてせめて僅かばかりの若さを手に入れようとする。(略)しかしこの年頃に起ってくる数々の問題は、もはや昔の処方では解決されないのである。人生という時計の針は後戻りさせることが出来ない。若い人間が外部に見出し、また見出さざるを得なかったものを、人生の午後にある人間は、自己の内部に見出さねばならぬのである。ここでわれわれは、しばしば医師をして少なからず頭を悩まさしめる新しい問題群の前に立たされるのである」。
ここに示されている医者としての見解には、納得させられるものがある。交友関係を振り返ってみても、粘り強く創作に励んできた友人の何人かが、四〇代に入ってから、気持ちにおいて表現行為に挫折しており、生きることが困難に感じられる年代なのだと、つくづく思い知らされることがあった。自分にとっても、これまでは「自然と教育」とが力になっていたという実感があり、新たに「自然段階から文化段階への移行」を自覚することは、どうしても必要だと考えざるを得ない。そういえば、大学生のころにはフロイトを好んで読んでいたが、四〇代に入り、不思議とユングがおもしろくなってきた。その理由も、引用した部分を敷衍することで辿れそうだ。
念のため、フロイトとユングの仕事を簡単に見比べてみたいが、アンソニー・ストーの『ユング』(一九七三)に簡潔なまとめがあるので、それを利用させていただく。
「ユングの母は、ときどき、常識的な意見を述べておきながら、続いてそれを彼女の別の非因襲的な部分によって、否定することがあったので、彼は母親を問題のある矛盾した人として述べている。そのため、少年ユングは早くから、彼の母が実際に意図していることを必ずしも口に出さないし、それゆえ分裂した人間だということを認めていた。(略)彼はまた、女性全般に対する深い不信感と、殊に、母に対する矛盾した感情を強めたのである」。
「対照的にも、フロイトの母は暖かく守ってくれる、まさに熱愛する人であり、一方、彼の父は厳格で、疑いもなく家庭の権威者であった。それゆえ、フロイト派の精神分析学が、良心と、義務と、罰の恐れとに非常に重点を置いた、父性的基礎をもつ心理学であることは驚くに足らない。フロイト派の『超自我』は、確かに女性的というより男性的なものである。一方、ユング派の分析心理学は、はるかに母性的なものに根ざしており、保護者としてはもちろん、呑みこむ者、破壊者としての女性のイメージを扱っている」。
「しかし彼(ユング)は、母性的なしがらみから抜け出すため、個性を発達せしめる努力に強くかかわったのであった。このような家庭で、このような時代に育てられたので、ユングが、一生を通じて、大いに宗教上の問題に心を奪われてきたのは、避け難いことであった」。
以上のように、両者の人物像がくっきりと対比させられている。それだけに、二人の思想の位置づけについては、その理解の助けになるが、思想そのものの根拠とは必ずしもみなさない方が妥当かもしれない。とはいえ、それぞれの仕事の印象を、見事に語っているのも事実である。なかでも、その生い立ちゆえに、ユングが「個性を発達せしめる努力」に強くかかわったという指摘は重要だ。それは、ユング派の概念の弱点といわれることもある、精神病者と正常人の区別がない見方にも通じているだろう。
筆者の了解した範囲によると、当時のフロイト派は、中年やそれ以後の人の分析を引き受けることに慎重であった。つまり、無意識の過度な支配に悩まされている者、弱い自我に悩まされている神経症者に主としてかかわり、正常な統御装置の不備に基づくことを症状の前提にして、治療をおこなっていた。それに対し、ユングの実際の患者たちは、統御に欠けておらず、強い自我を有していたという。彼はこう述べている。「大部分の私の患者は社会的によく適応し、傑出した能力をもっていることも多く、正常化など何の意味も持たなかった」。「(彼らは)自分の人生の無意味さ、無目的に苦しめられているのである」。「私の患者の三分の二はすべて、人生の後半にいる人たちである」。このように、ユングの述べる「個性化の過程」とは、「意識が異常な発達段階に達してしまい、無意識からあまりにも遠ざかってしまった場合についてのみ」、いわばごく少数の者とだけ関係するものであった。あわせて、その少数者についても、著名人や芸術家への分析は、無意識を安易に言語化すると創作力を減退させるので、ユング自身は断っていたらしい。
こうした思想の他の一面として、ユングが、子供の精神病理学にほとんど興味を示さなかった事実は見逃せない。その理由について、子供というものは、妨害を受けなければ申し分なく育つものであり、もしも子供が障害を示したなら、子供自身よりもその両親を治療するのが心理療法家の務めだと考えていたようだ。参考までに、ストーの著作『ユング』から、平均的な人の成長過程にふれている部分を挙げてみる。
「平均的な人は、どこに自分自身に対する価値観を見出すのか。両親に満足に愛されているなら、子供は決して人生の目的や自分の存在の意味を問うことなどはない。そして、両親が与えてくれたもののために、自分が価値あるという感じを非常にしっかりと組み入れるので、一生を通して人生を意義あるものと感じ続ける。その上、結婚したなら、配偶者に対して、後には子供に対しての自らの価値を確信するだろう」。
この観点からすれば、子供たちが統計学的に比較される均一な義務教育の現場は、家庭で育まれた価値を否定し喪失させる場になるとともに、現社会への適応を優先して選択された評価基準を、一方的に植えつける場所だともみなせる。人生の意義、存在の意味を求めることを強いられ、そうした問いを急激に意識させることで、分裂性性格を促進しているといえないこともない。社会に受け入れられるという点でイニシエーションは必要だが、逆に、学校で教える価値観に迷いなく馴染むことで、家庭内の人間関係に不穏な隔たりを生じさせたり、地域に根ざす形骸化した行事に批判的な態度を取るといった現象も、必然的に起こり得るだろう。戦後の学校教育に功罪が伴うのは当然とはいえ、日本人の価値観を一変し、はからずも故郷の感覚を知らない国民を増加させたのは残念でならない。
他方、宗教に自己の内的世界の憩いの場を見出せたかつての世界像は、平均的な人にとってなら、現在の義務教育よりもかなり上等な環境を整えたと想像される。なぜなら、神という全体的な真が存在したからである。この点で、神のようなものをより良く持続させることが、本来の意味での文化だと考えるべきかもしれない。そこでの異端者は、文化を破壊する暴力ではなく、完成へと近づける活性化の力だと受け取られるだろう。いずれにせよ、その共同体で問われるのは、人事にかかわる組織管理のあり方だったにちがいない。
しかし現代の状況をみると、まったく別の方向に進んでいる。過当競争のなか、経済的に巨大な権力をまとった者の意志が、マスコミ報道の内容に影響を与えているだけでなく、結果として平均的な人たちの感情を誘導し、子供たちへの教育の現場にも、形式的なだけの価値観を深く入り込ませていると思えてならない。そうした秩序を支えるシステムが表面的であればあるほど、親切心で責任を負おうとする個人の居場所はなくなり、ルールを乱す者として組織から排除されるだろう。また、人の身心の能力とは不安定なものなのに、形式に対して完全であることだけが求められるため、どんな契約であれ、互いにとっての足枷にしかみえなくなっている。神のような良き全体性は、現代社会ではまったく成立しそうになく、職場での不満を家庭にぶちまけ、家庭での不満を職場でうわさするばかりの老若男女の人生が、本当に健全なのかと疑わずにはいられない。
おそらく国民の半数以上が、今の生活に不満を抱いているのだろう。その空虚感を抱えつつ、自分の生と真剣に向き合おうとする一人の優れた詩人が、筆者の同世代にいる。
荒木時彦の『フォルマ、識閾、その歩行』(二〇〇八)から「羊」を引いた。この詩集では、多くの作品の構成が、前半に散文を置き、後半に短い一行をつらねている。こうしたスタイルについて、前半で作品世界の状況設定がなされ、後半ではその世界観のなかであふれる生命の声が書き留められていると、ひとまず理解しておく。この方法は、現代日本で言語表現をするにあたり、読者との共感を誘引する非常に巧みなものだと思われる。
まず、作品前半を、「わたし」の視点から読み直してみる。
「わたし」が雨をからだに受けたとき、「それは空の話であったのではないか」と問われていることに気付く。空を見上げて答えようとすると、少年に呼ばれる。その少年は、生贄の羊を選んだ人物であり、羊が空へささげられると、雨が降り、川は水で満ち、人々は静かにそれを喜んだ。少年は「わたし」に、生贄は「わたし」でもよかったという。そこで「わたし」は、生贄となって空へささげられたなら、問いに答えることができたかもしれないと思うが、自分は生贄ではないので、問いに答える資格はないと感じる。そのとき、少年こそ自らを生贄としてささげ、空へ答えを告げるだろうと、ふいに期待する。
ここでの「空」は「神のようなもの」に近いと考えられるが、「地」と分離させられているので、人にとっては、全体性というより恵みの力を持つ対象だといえよう。そのため、「わたし」が「雨」をからだに受けることは、「空」から超越的な力を与えられることに通じる。けれども、「地」の一部としての「わたし」には、まだ「空」に答える力はない。そこへ、「空」にささげる生贄を選んだ少年が現れ、生贄は「わたし」でもよかったという。「わたし」はその言葉を聞き、「空」との接点をみつけるが、その資格を持っているのは少年の方だと感じ、少年こそ答えを知っているだろうと考える。
こうした状況設定をふまえ、後半の詩句を辿ってみる。「鐘が鳴る時/私の中では雨が降っている」、…鐘が「神のようなもの」への人々からの挨拶だとしたら、それに呼応して、「私」は恵みの雨を想起するのだろう。それは内面に「空の話」を抱えていることを意味する。つまり「私」とは、生贄の位置にあるのかもしれない。「鐘の音と雨音が重なり/私と世界の境界が不鮮明にざわめく」、…人々の希望と恵みの達成を重ねられることで、「私」は世界という全体性へ浸透しようとする。「さらに/水鳥の記憶が表層を流れる」、…鳥のなかでも水鳥は、空と水(雨)に親しい存在だ。その彼らの記憶が、「私」と世界の境界で橋渡しをするらしい。「未だ/盲目の意志は/達成されない」、…「盲目の意志」とは境界を消しさる力だろうか。付言するなら、その達成は、詩集の巻末の作品において、語り手と「自然の傾向」との同化という状態で成されている。
これらを、自己を生贄として差し出すことだと捉えるなら、この詩集は、「私」が全体性そのものになる過程を描いていると解釈できる。ここに至り、その必要がなぜあったのかと考えなければならない。神がいなければすべて許されるとともに、神がいなければ許しそのものがない、と嘆いたのはドストエフスキーであったが、「地の話」は「空の話」によって支えられているのだろう。人は生贄の立場を知ることで、許しを学ぶ。ユングの努力も、そのようなものではなかったか。「個性化の過程」の結果、特殊な少数者は、「空の話」のようなものを心に受け入れ、「やや変人」として人生を全うできたにちがいない。
竹内敏喜(たけうち・としき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)