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今、詩歌は葛藤する 27
〜『言葉からの触手』、正直さにおいて全世界と対峙する〜

竹内敏喜

 年末の慌しいサラリーマン生活を過ごした後、冬休みに入れば、何を読みたいのかわからないほど心が弛緩してしまった。二〇一七年を迎え、せめて詩歌についての書物を選ぼうと思い、鮎川信夫の『歴史におけるイロニー』(一九七一)を開いてみると、指摘されている事柄はいまだに現代の問題に直結しており、驚くとともに大いに楽しむことができた。例えば現代人の保身性についてなら、次のように述べられている。

 「現代人の情緒喪失は、小さな保身からきている。複雑な文明社会の機構のなかで普通の社会人として行動していくだけで相当の克己心を要するのであるから、直接関係のない他者とか外部世界にまで理解や同情をおよぼすだけの余力がなくなってしまっている。それでいて、自己の存在を、何か大きな根から切り離された不安定なもののように感じている。このような疎外感は、じつは外部世界に対する自己の根本的無関心(アパシー)に由来することに少しも気づいていないようだ」。

 己を顧みても、家庭での雑事と生活費のための労働にふりまわされ、家族や仕事上の人間関係以外の他者に対する精神的な余裕はあまりなくなっている。そこへ、自治会の仕事や、子の通う小学校にかかわる活動が舞い込むだけでなく、それらはたいてい強制的で、根本的な解決がつけられない内容をともなっており、不快感ばかりが残ってしまう。そのように社会生活では積極性が足りないとはいえ、詩歌に対する意識は「大きな根」として持続しているつもりだから、鮎川の文章のなかでも次の一節には立ち止まらざるを得ない。

 「私たちが詩人を信用するのは、彼が『自己』をいつわっていないと考えるかぎりにおいてである。『自己』をいつわる詩人からは何物も期待することはできない。理由は簡単だ。いかなる意味においても、嘘で『自己』を確立することはできないからである。『自己』をいつわっては、もはや詩人が世界と対峙することは不可能となり、世界もまた彼の前に真の姿を現わさなくなる。自己をいつわらないという『正直』だけが、全世界と対峙しうる詩人の唯一の武器なのである」。

 筆者が出会った詩人たちを思い返すと、信用できると感じられた相手は確かにいる。彼らから受けた印象に基づいていえば、自己をいつわっていないだけでなく、正直さにおいて全世界と対峙しているようにみえる。換言するなら、彼らは皆、世間とのかかわりでは不器用な生き方をしているとも認められそうだが、むしろ年齢とは関係なく、自己確立の途上だと捉えるべきかもしれない。彼らの過去や現在の達成以上に、その未来への意志を信用することが、詩人を信用することなのだろう。
 一方、詩作品のおかれている状況や背景について、鮎川は次のように記している。

 「(日本において)詩は単独者の孤独な作業として進むほかはなかった。家系もなければ権威の道案内もないということは、作者の自由を保証する半面、主体的に書かれただけでは意味をなさないという結果をも招来する。そこから、それがどう受けとめられるかをまってはじめて意味をもつ、という批評的側面が重視されねばならなくなる。今日、詩と批評とが離すべからざるものとなった理由の一つは、このような近代詩、現代詩の背景からも容易に理解されよう」。

 ここから読み取れることとして、二一世紀を迎えてもまだ、日本の自由詩が文化的に安定したと感じられない理由の一つに、詩作品に対する批評的側面が成熟しきっていないから、という点が挙げられそうだ。だが、思潮社の取り組みを中心として現代詩を導いてきた流れを想像すれば、現代詩人は批評問題に徹底的に向き合ってきただけでなく、その成果もけっして空しいものではなかったと考えられる。だからこそ、戦後詩の概念の飽和の後に、その逆流に気づかず、魅力ありげな批評的側面に媚びる作品が増えたのではないかとの懸念が起こらないこともない。あるいはその延長において、流れそのものの方向が誤り、一般化しなかったのだろうか。一例で譬えるなら、鮎川が冗談のように触れている次の内容などは、批評意識の原点に刻んでおくべきことと思われるけれど、その精神の反響をともなった詩歌や批評文を探してみても、ごく少数の書き手からしかみつからない。

 「今日、罪とされている多くのものは、原始時代には無害なものであった。貪欲なんて少しも罪ではなかったし、腹一ぱい食べたら、原始人はなまけていた。なまけるのは、もちろん少しも罪ではなかった。生きること自体がたいへんだったから、堕落なんていうことはありえなかった。自然の傾向にまかせておくだけで、原始人は少しも道徳に違反しなかった」。

 つまり、「自然の傾向」との関係を、むやみに断絶させてはいけなかったのではないか。ここにおいて、言及すべき一人の詩人が想起されてくるが、まさしく『歴史におけるイロニー』でも、彼について多くの言葉が費やされている。二カ所ほど引用したい。

 「物理を信じているやつにはかなわない——吉本隆明の業績から受ける印象を一言で語れば、そういうことになる。過去をすべて自己嫌悪、羞恥の別名にしかすぎないとしながら、それを秘匿しない態度を、彼は『わたしが虚偽から遠いからではなく、わたしの思想が、<自然>にちかい部分を斬りすてず歩んできたし、いまも歩んでいるからである』というふうに説明している。これも文学者の自信というよりは科学者の自信である」。

 「なぜ思想が羞恥の対象になるかといえば、それが彼自身のものだからである。多くの知識人にとって思想は権威からの借りものにすぎないから、羞恥の対象になるどころか、安心して自信の拠りどころとなるくらいのものである。しかし、吉本にとって、思想はほんらい人に隠しておきたいもの、何ほどかの羞恥を伴わずしては公開しえない、自分自身の本性に属するものとして意識されていた」。

自然をふまえた思想なら、考察が深まれば深まるほど、過去の自分のおこなった論点の未熟さに気づくのは当然で、これは大いなる自然と一個人のちっぽけな能力を比べた場合、明らかな結果だろう。ならば、そのときそのときの等身大の思想を公開するしかないが、それは裸体をさらすことにも似て、一時的な恥じらいをともなう。また、他人の気づいていない「罪」を自分だけが知っていることは、自己の思想の涵養に通じるとはいえ、それを他人にわざわざ指摘するとなると、「罪」でなかったものを人間関係において「罪」に価するものだと自覚させることになる。そのことで社会のなかに「堕落」という位置、いわば精神的な格差が生まれざるを得ない。他人にそう感じさせることは自分にとっても辛いことであり、その辛さを前にして絶対的な責任をとる術のない自己を知れば、逃れようのない羞恥があらわれてしまう(実際には、ほとんどだれもが堕落の発生を気にしないふりをして、無意識的に指摘者への憎悪をつのらせるとわかっていながら)。けれども、この感覚は正直さの大切な証しにちがいない。恥を認めて礼節が形成されるというのは、自然の調和なのだから。鮎川の意図とは異なるだろうが、このように理解してみる。
 吉本隆明の著作に関しては、古書店で手に入りやすい書籍も多かったので、大学生時代に熱心に読んだものの、その後はほとんど開かなくなった。結局のところ、彼の思想内容をうまく学ぶことができず、思想家としての態度ばかりをみつめていた気がする。それが今になって、吉本隆明という人物は、詩人のあるべき姿を示していたのだと思われるようになった。今回取りあげたい吉本の『言葉からの触手』(一九八九)は、正確には詩集ではなく、本人は断片集だという。「あとがき」には概ね次のように記されている。

 「この断片集は、言ってみれば生命が現在と出あう境界の周辺をめぐって分析をすすめている。そしてこのばあい境界を出あいの場にしているのは言葉だとみなされている。(略)生命という言葉は、なによりも生体の代謝活動を表象しているのだが、この代謝活動もまた現代では内面性の活動の範囲に入れないと、精神活動のひろがりをとりこむことができないとみなされている。いいかえれば永続と死とを象徴的な特徴とする生命の活動もまた、精神の活動だとしなければ、わたしたちが現在ぶつかっている多様な事柄をおおいつくすことができないと、わたしにはおもえる」。

 こうした態度からは、科学的探求精神だけでなく、それ以上に詩人的包容力が伝わってこないだろうか。詩人の書きたいだろうことをその先に想像させるといった、批評精神の可能性を開いている。この点からも一つだけ確認しておくと、「代謝活動もまた現代では内面性の活動の範囲に入れな」くてはならないというのは、「生命」の概念に、精神の活動の意味を幾層にも付与することだと思われる。まず、生きているだけでは生命ではないとの、現在の感覚が前提にあるだろう。そして生命の活動そのものが被観察者の内面性の影響をまっすぐ受けているだけでなく(現象の認識)、それを正確に捉えようとすると、観察者の内面性の活動の多様さによって対象が細分化され、全体としてはますます複雑になっていく事実がある(認識の整理)。あわせて、生命のモデルケースを定めることが非常に困難になったという現在の問題が、考慮されていると判断できる(整理の共有)。そうしないと、「生命」は死体に似るばかりで、現実的な意味が何も備わらないことになるからだ。こうした「意味」の今現在における姿を、詩人のまなざしで「言葉」において科学的に捉えようとしたのが、『言葉からの触手』ではないか。
 以下、変則的ではあるが、特に興味を感じた部分を引用し、その断片を詩歌の一篇と仮定して読解を試みつつ、ささやかなコメントを付すにとどめたい。

気づくというとき、そのはやさはある境界のうちにあるはずのものだ。気づきの本質からして、境界をこえてはやければ、過程のすすみ自体をさまたげるだろう。また境界をこえておそければ、気づき自体が無意味になる。この気づきの境界はずっと以前には、はっきりと自然がすすむはやさのことだった。現在は? いまもおなじだが、このばあい自然過程のはやさは、さまざまな産業のはやさとして多層になっている。

 (「1気づき 概念 生命」より)

 これは作品全体の冒頭にあたる一節だが、語り手が意識しているのは、「気づき」の本質は「境界」のうちでの「はやさ」に関係し、以前は「自然」のすすむ「はやさ」と同じだったのが、現在では「自然過程のはやさ」そのものが「さまざまな産業のはやさ」として多層になっている、ということだ。ここでの「境界」は、社会のなかで生活する一個人の能力をふまえたものだろうから、そうした個別化により、「気づき」も多様になっている事実を確認している。そのうえで、普遍性への道筋を辿り直そうとするらしい。

それ自身の出発点から遠ざかる運動(否定運動)をもつことができるものは、すべて抽象的だ。人間もまた。ただこの運動が成り立つためには、<そのまま>が存在であるようなものが走る軌跡に、抽象自体がはいりこめなくてはならない。なんとなれば、<そのまま>が存在であるようなものが走る軌跡は、ほんらい万能の軌跡、普遍性の軌跡だからだ。いったんこの軌跡にはいりこむことになれば、すべての抽象は、いいかえれば自身のなかに自身の反対物を含むものは、自身とその反対物とに分割される。わたしたちの内省のなかに、ときどき後悔の色あいがじぶんで視えることがあるが、それはこの軌跡を内省が走っているときだ。

 (「10抽象 媒介 解体」より)

 「<そのまま>が存在であるようなもの」を自然のことだと受け取るなら、否定運動を持つものとは、自然のなかで自分の環境を整え、第二の自然(人工)を意識できるもののことだといえる。そのあり方は、自然を普遍性だと捉えると、自分に有利なものを集めた環境であろうし、その有利さが価値として観念化されるとともに、しだいに他者とも共有され一般化されていくようなものだ。するともちろん、自分にとって不利なものもみえてきて、内省において常に自己につきまとうことになる。ここでも価値観が人々の間で飽和すれば、「気づき」の多様化と同時に、価値という概念が価値感覚を喪失していくだろう。いずれにせよ、自己の生命という自然とともにある流れと、自分自身の精神生活が、バランスを失い危機的状況を迎えるごとに、さらに両者の乖離は自覚されると思われる。

<感ずること>においてわたしたちの伝統はとおく深いが<考えること>においてわたしたちの起源はちかく浅い。古典近代の<考えること>の起源の時期に、デカルトは知的な資料の積み重ねを排し、先だつ思考をとおざけて「ただひとり闇の中を歩む者のようにゆっくりと行こう」(『方法序説』第二部)とおもいきめた。<考えること>の範囲にはいってくるすべての事物は、おなじ仕方でつながっているから<真>でないものを避け、そのうえ演繹する<順序>さえ間違えなければ、どんなとおく隔ったものでも、かならず到達できるし、どんな隠されたものでもかならず発見できる。これがデカルトの確信だった。当然いちばん単純で、いちばん認識しやすいものが、デカルトの<起源>にやってきたのだが、そういうデカルト自身もまったくおなじ理由で<考えること>の<起源>になった。

 (「11考える 読む 現在する」より)

 伝統が「感ずること」においてとおく深いのは、人間の生命への憧憬へと誘うからだろうし、「考えること」において起源がちかく浅いのは、抽象というあり方が「自身とその反対物とに分割される」ものに過ぎず、「いちばん単純で、いちばん認識しやすいもの」へと導かずにはいないからだ。また、デカルトの確信が、考えることのシンボルになると、彼自身も考えることの起源になるというのは、抽象化の性質として、「それ自身の出発点から遠ざかる運動(否定運動)をもつことができるものは、すべて抽象的」だからであり、デカルトという思想家のイメージが、現在においても「自然」に対する否定運動の雰囲気を失っていないためだと思われる。それは、この世の権力を支える力ともなっていよう。

ほんとに畏れなくてはならないのは、この種の命題がどれもこれも権力から暗示された主題の、現在におけるヴァリエーションにほかならないということだ。表面層の善悪をえらんでも深層の善悪をえらんでも、いずれか一方をえらぶかぎり権力の穽にはまりこんでしまうほかありえない。タバコをすうのも、イルカや鯨を食べるのも、天然の緑が少くなるのも、すべて善でもなければ悪でもない。それは選択を強いるような本質を、はじめからもっていないのだ。それにもかかわらず、この種の一見つまらない命題は権力の問題でありうる。現在がそんな性格を強いているのだ。命題自体が表面層と深層をもち、そのうえふたつの極に分離する特徴をもつことを見極めるのは、権力を見抜くこととおなじだ。

 (「15権力 極 層」より)

 第二の自然の向うべき絶頂は、全体主義のようなものであり、それは生命とのかかわりを本質的に隠蔽しているので、普遍的な価値づけはできない。そうした人間社会のなか、ある状況下で個人が善悪を選択すれば、その判断は権力の側に抽象的に利用されるばかりだ。もはや人間同士の利害関係の問題ではなく、権力側の操作の結果にすぎないまでに、現代社会は生命のあり方から孤立してしまっている。これで本当にいいのだろうか。…このように、吉本の詩的試みは、人々に真の「気づき」を促していると考えられよう。

(二〇一七年一月二五日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

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