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今、詩歌は葛藤する 23
〜『1981』、その復活こそが主体であろうか〜

竹内敏喜

 四〇歳を過ぎたころから、ヨハン・セバスチャン・バッハ(一六八五〜一七五〇)の作曲した音楽が、自分でも信じがたいほど心に沁みるようになった。その感覚をひとことで表現するなら、安らぎである。規模の大きな楽曲ではなく、ヴァイオリンやチェロの無伴奏の組曲、ピアノのパルティータなどが、今の自分には一番しっくりくる。バッハの音楽は、一日八時間ほどギターを練習していた高校生のときにも、意識的に聞き取ろうとしていたが、対位法の巨匠としてではなく、個々の曲の旋律の比類なさに酔っていたにすぎない。その後、大学生になってグレン・グールドのピアノ演奏を繰り返しステレオで流すようになると、バッハの曲の向こうから伝わる哀しみのようなものもみえてきた。けれどもそれは、グールドという希有なピアニストにこそ由来すると思われた。やがて二〇代前半には、演奏行為に技巧的なものしか感じられなくなり、一種の無意味さを認め、逃れるかのように楽器に触れなくなった。
 偉人の生涯を知るのが好きだったので、モーツァルトやベートーヴェン、ワーグナー、マーラーについては何冊かの本を所持していたが、バッハについてはほとんど知らないままだった。若さにありがちなロマン主義的傾向に陥っていた者にとっては、バッハの音楽から、一人の人間の個性よりもバロック音楽の極致といった印象を受けるのは自然だろうし、彼個人にまで興味がうつらなかったのはしかたない。それが今になって機が熟したのか、急に彼について調べはじめ、なかでも再婚相手であるアンナ・マグダレーナ・バッハの『バッハの思い出』をみつけると、むさぼるように読みはじめた。
 「とつぜんわたくしは、我身の若さ(彼は一五歳上)と、こうした人の妻となることを承諾したときに我身に引受けた責任の重さとを、感じたのです。もしもわたくしが何かで彼を不幸にするとすれば、たぶん彼の音楽も台なしにしてしまうことでしょう。彼はいつも申しておりました、不協和音は和音の近くにあるほどそれだけ強いものだ、だから夫婦の不和というものは一番耐えがたいものなのだ、と」。
 「彼は何事によらず、家でも音楽でも国のことでも、秩序を信じ、またそれを礼讚し、支持していました。彼が秩序と義務とを主題とする言葉を音楽にせねばならないとき、彼は完全に幸福でありました」。
 「『僕が演奏するのはね』、といつか彼はわたくしに申しました。『世界の一番優れた音楽家に聴いてもらうためなんだ。おそらくその人はその席にいないだろうけれど…、しかし、いつもその人がいるつもりで演奏するのさ』」。
 「弟子たちに四声の対位法から始めさせるのが、セバスチャンの規則だったそうです。それは、四声をちゃんとものにしていなければ、よい三声や二声の対位法は書けないからです。和声はどうしても不完全なものにならざるをえないので、四声の楽節の取扱いができない人は、多声の楽節を和声にする際に、何を省略したらよいか、決めることができないのです」。
 「『彼(バッハ)がこのとてつもない熟練を身につけるときに、ただの一度でも音の相互の数学的な関係について考えたことがありますかね。それからまた、あの偉大な作曲を完成させるときに、ちょっとでも数学の助けをかりたことがおありですかね』。わたくしは、決してそんなことはなかった、と申し上げます。音楽は、彼の血であり、手足だったのでございますもの、数学は本当にいらなかったのでございます。彼は音の本質について、もともと直観的な認識をもっておりました」。
 伴侶の言葉(他者の創作との説も有力だが)を通してみえてくるバッハ像は、なにより自己の信念をまげない不屈の精神の持ち主だ。若くして両親を亡くし、音楽を職業とすることでなんとか生活の支えを得たときから、猛烈な訓練でオルガンや弦楽器の演奏能力を高め、作曲技法を学んでいく。陰での取引きに疎いため就職活動には苦労し、ケーテンの宮廷楽長という安定した職場がみつかったかと思うと、宗教的問題や主君の意向が変わるなどして失職、やがてトーマス教会およびトーマス学校の、生徒監督という雑用ばかり多い楽長の地位につく。そこでも音楽に熱心なあまり、上司とのいざこざは絶えない。他方、最初の妻が亡くなり、再婚してからも次々に子供が生まれるが、衛生状態の悪い当時の平均的な家庭と同様、その半数が幼くして死んでしまう。
 もちろん楽しい思い出もたくさん描かれている。家族は皆、音楽に夢中だっただけでなく、演奏能力や作曲にも長けていたため、父親を喜ばせる。家族で共演するのがなによりも楽しみとなり、そんなときにはバッハはヴィオラを弾き、曲の全体を眺められる位置を好んだという。子供たちが成長して、それぞれの実力に応じた職場をみつけたときには、彼も満足をおぼえたことだろう。だがここで、思いがけない不幸が訪れる。もっとも期待していた長男が、自作だと称して父の作品を流用したのが発覚したり、その長男が、父の作品は古臭いといいふらしているとの噂がバッハの耳に入るのだ。彼はひどくショックを受ける。しかし当時においても、バッハの音楽的探求が時代の流行からはずれていたのは事実で、その名声は主に唯一無二のオルガン演奏によって確立されていた。
 それにしても、バッハの作曲した作品の何が、これほどまでにこちらの心をゆさぶるのか。理屈で割り切ると、彼の妻が挙げるように、秩序と義務を主題としたこと、一番優れた音楽家に聴いてもらうつもりで演奏したこと、多声の楽節を和声にする際に省略する部分を明確に意識していたこと、要するに、音の本質についての直観的な認識を、徹底して研ぎ澄ませていったことで成し遂げられた魅力だといえる。あわせて人間の情感の面から指摘するなら、キリスト思想(ルター派の信仰)をふまえて受難と復活という摂理を肯定しつつ、生あるものとともに死者への慈愛を、できる限りのふくらみをもって音楽の形式で整えたと考えられよう。例えば、「シャコンヌ」という無伴奏ヴァイオリン曲の一五分ほどの一章のなかでさえ、悲劇的な響きの変奏がやがて恩寵の広がりへと変化し、最後には現実を受け入れろといわんばかりに重々しく弾き終えられ、劇的な展開が充分すぎるほどに達成されている。
 この曲については、一〇人以上のヴァイオリニストのものをCDや実際の演奏で味わったが、それぞれに教えられる点は多かったものの、当然のことながら自分のなかのイメージと完璧に重なったことはない。そういえば、この「違う」という感覚が、他の偉大な作曲家に比べ、どうしてかバッハの場合は危機的に大きいと思われるようになった。ならば、ヴァイオリンを手に取り、自分で演奏してみれば良いのだろうか。いやむしろ、心のなかではすでに求めるべき演奏がなされているのではないか。その響きはいつだって明確でありつつ、つかみ切れない曖昧さを残している。卑しい譬えでいえば、深酒して駅から家まで歩くあいだ、イヤホンで好みの「シャコンヌ」を聞いているときに似ている。激しさや優しさを過剰に味わうのではなく、人であることを超越しようとする感覚への接近であり、それが自分の欲求にぴったり応じた状態であることも、わかっているのだ。この感覚を凝視するとき、不思議な違和感のあらわれにも気づく。自分の欲求は、本当は自分の欲求ではないという観念であり、「シャコンヌ」の復活こそが主体であって、自分という個人の身体や精神を通し、何者かと何者かが再会しているような歓喜の訪れがあるのである。
 もしも、この出来事を絶対視するなら、作品の完全なる復活のためには、個人の身体や精神が作品にふさわしいものとならなければならないだろう。ここにおいて、芸術の芸術たる秘密がわかるのかもしれない。それほどまでに真の作品とは力の強いものであり、その強さを見出した受け手にだけ、絶大な安らぎを与えてくれる。こうした思想は、四〇歳を過ぎるくらいにならなければ親近感をおぼえないらしい。余談だが、作品そのものがしっかりしていると、逆にさまざまな演奏に対応できるのも事実で、バッハの曲をジャズにしたり、コンピュータでミニマル化したものなどは、多くの愛好家を得ているようだ。

氷は、はる
動いている中の、最後にのこされていた
ふちどりがはね返したものを
つま先で、割った
——
中心からまっすぐ消えていった樹木
そのようにふゆの形象は手もとの花譜の上にものこる
名まえが呼ばれる部屋は
昼間のしずかに解放された四辺形の
うちとそと
だった、…点滅する霜柱と
だった、…かたい土、庭、点滅する
水ッ気は、むすばれてはほぐれる
両手のひらを
気持ちよさそうに、冬光へはりつかせ、
名まえが呼ばれる
声が、聞こえるでしょう
ガラス窓の桟は、透きとおらせる手のひらの感触を
通過し、もたれても既になにもなくなっているということ
なにももはや起ころうとしていないということ
——
中心からまっすぐ消えていった樹木

 手塚敦史の詩集『1981』(二〇一六)から「しず気」を引用した。この詩集に対する個人的な印象を先に述べるなら、現代詩という遺産を非常に洗練された表現でまとめあげた彼の第一詩集『詩日記』(二〇〇四)からの、素直な展開があるように思われる。今、振り返るとよくわかるが、優れた表現能力ゆえに言葉の可能性に挑戦せざるを得なかったことが、彼のいずれの詩集からも宿命的に感じられる。ただし、第二詩集、第三詩集での試みは受けとめかねた。それだけに今回は、予想外に新鮮な風の流れが伝わってきた。詩人本人に会った方はご存じだろうけれど、失礼ながら、彼は知的であるようで鈍感さも甚だしく、独立心があるようでまったくの甘えん坊である。つまり神経質な面と無頓着な面を、気分次第で他者にぶつけてくるところがないこともない。それでいて言葉に対しては、神経質さばかりがこれまで前面に出ていた。あるいは自分のなかの甘さを、技巧への奢りで解消していたのだろうか。それが、『1981』では無頓着な面を効果的に利用する余裕もみられ、手塚敦史らしい作品とはこれかと、納得させられたといえる。
 作品「しず気」を読むと、「中心からまっすぐ消えていった樹木」という一行の反復に目がとまるとともに、どちらもその直前に「——」が置かれていることに気づく。さらに戻れば、「つま先で、割った」と「なにももはや起ころうとしていないということ」との詩句がある。両者の関係はなかなか興味深く、作者が読者に期待するものとは、この空白感ではないかと思われる。つまり、詩人という行為が夢をともなっていた時期は過ぎ去り、何も起こさないと自覚したときに、「中心からまっすぐ消えていった樹木」という現象が意義深くみえてきたのだろう。この位置で作品全体を味わうと、「名まえが呼ばれる/声が、聞こえるでしょう」が、清らかにはかなく美しい。これは復活への一歩だ。
 また、『詩日記』からの展開の様子を考察するにあたっては、詩人という行為が夢をともなっていた時期を捉えた作品「ぼくらの夢をあばくよ……十一月一日」の冒頭と末尾を引いてみる。ここでは未だ、「夢をあばく」ことが「夢」となっていることを、書き手は完全には自覚しておらず、それだけに技巧的な不安定さを楽しみつつ、言葉をいきいきと輝かせている。いうまでもなく『荘子』の胡蝶の夢をふまえた作品だろうが、その主眼を「解析」と「結晶」に置くことで、夢から覚めても「蝶」でありつづけることを可能にし、一種の「超」へと向かおうとしているようだ。

蝶になって、
誰もおいつけっこない。
とぶ帽子すら 踏まれて、
のびた影ですら  野原のしたを通るとき、
解析される
表面の砂利石。
その奥の万華鏡。
合わせ鏡のまま 書物と空とを、
おりてゆけば、
木まで
こおるだろう。
結晶のなるのを
聴き、

(略)
上目づかいの雨かなにかが、——一斉に降れば
いずれ蝶になって、
誰もおいつけっこない。
「葉が落ち、それも」
「花が落ち、それも」
息ふきかけられていたような、
心ふさぐだろうモニターの
はばたきを
みている。 (むこうから、来たひと)

すでにしべからこぼれていた。

 こちらの「こおるだろう」が、預言的に「氷は、はる」につながったとは、安易にいわない。あくまで詩人の美意識の一貫性が導いた近似だろう。ただ、「誰もおいつけっこない」存在だった者が、「つま先で、割った」者に変貌したことについては、考えずにはいられない。そして、考えさせられるという現実も、「そのようにふゆの形象は手もとの花譜の上にものこる」の一つなのだと感じる。模倣のニュアンスもある鏡(氷)は、映すためではなく割られようとして現れ、「——」において声を響かせるのだろうか。徹底して作品に取り組む人物こそ、魂の受難と復活が主体であることをよく知っている。

(二〇一六年五月一四日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

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