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今、詩歌は葛藤する 22
〜『陽を浴びて』、人はかつて何を思いめぐらしたか〜

竹内敏喜

 「今から話すことは、わたしたちにとって、とても大切な物語だ。だから、しっかりと聞くのだ……。たましいのことを語るのを決してためらってはならない。ずっと昔の話だ。どのようにわたしたちがたましいを得たか……。ワタリガラスがこの世界に森をつくった時、生き物たちはまだたましいをもってはいなかった。人々は森の中に座り、どうしていいのかわからなかった。木は生長せず、動物たちも魚たちもじっと動くことはなかったのだ……」。
 これを物語った人物の名はボブ・サムだ。ボブは、古老オースティン・ハモンドが一九八九年の亡くなる数日前、クリンギット族の神話を伝承してくれるだろう何人かの若者たちに、託そうと語りかけたその場にいた。ボブはまた、アラスカを中心に活動していた写真家の星野道夫と友人関係にあった。星野は、ボブという同世代の神秘的な人物と出会い、日本からアラスカまでをつなぐ神話の存在を確信するようになっていた。残念ながら彼は、探求の途上で事故により若くしてこの世を去ったが、その表現姿勢に共感した龍村仁監督により、映画『ガイアシンフォニー第三番』で取り上げられた。
 一九九九年の一二月、都内に転居してまもないころ、大学の先輩にあたる詩人に誘われるまま、『ガイアシンフォニー』シリーズを観た。音楽家のエンヤ以外はだれ一人として知らなかったが、いずれの登場人物からも力強さと優しさがまっすぐ伝わってきた。そんななか、画面にボブが登場した瞬間だけは、身体に震えが走ったのをよく覚えている。
 「…『人々のために苦しむのだ。この世を救うために炎をもち帰るのだ』。やがて若者の顔は炎に包まれ始めたが、ついに戻ってくると、その炎を、地上へ、崖へ、川の中へ投げ入れた。その時、すべての動物たち、鳥たち、魚たちはたましいを得て動きだし、森の木々も伸びていった……。それがわたしがおまえたちに残したい物語だ。木も、岩も、風も、あらゆるものがたましいをもってわたしたちを見つめている。そのことを忘れるな……」。
 ボブの妻ドウによると、自分の辛い身の上の出来事を、出会って一時間も経っていないのに打ち明け、ボブの前で涙を流す女性が少なくないという。インディアンであるボブは、若い時代に旅をしながら、白人との軋轢の矢面に立ってリンチを受けるなど、地獄のような体験をしてきた。だから何か苦しみを持った人が、ボブの背負った深い傷を感じ、せきが外されて一挙に自分の傷を語ることができるのかもしれない、と…。ボブはその後、人々から忘れられ荒れ果てていた墓地を、十年の歳月をかけて掃除した。その行動が知られるようになり、シトカのインディアン社会が少しずつ変わっていく。若い人々が自分たちの文化に目覚め、自信を取り戻していったのだ。
 以上の内容は、星野道夫(一九五二〜一九九六)の著作から得たものである。彼の文章を読むようになったのは、映画を観てすぐというわけではない。『ガイアシンフォニー第三番』に再び誘われる機会があり、また、二〇〇三年頃だったか、彼の写真展のチケットがたまたま手に入るなどして、なんとなくその名前に馴染んでいったことによる。とりわけ写真展では、彼のエッセイから引用された一節も展示されており、適当に行分けされていたため、詩のようにみえた。それは、まったく無駄のない言葉だった。譬えるなら、目の前の対象を信じ切ることで、自分自身を解放しているといった印象を受けた。それから、図書館に行くたび、彼の本を借りることにしたが、読後には確かな満足感があった。
 ここで、個人的に好きなエピソードを紹介したい。
 「…海を見ながらとりとめのない話をしていた。クジラの話はしない。今年はもうだめだろうと、だれもが思っていたからだ。(略)夕方になって、隣のキャンプのクルーが走ってきた。『ジョー・フランクリンのクルーがクジラを獲った!』
 信じられない。からだ全体に震えるような興奮があった。(略)カメラを用意したぼくは、一目散に氷の見晴らし台に向かって走った。近づくにつれ、だれかの歌声が聞こえてきた。古いエスキモーの歌のようだ。見ると、だれもいない氷の上で、老婆がひとり海に向かって踊っている。ゆっくりとした動きで、何かに語りかけているように見える。マイラだ。(略)写真を撮る気にはなれなかった。目頭が熱くなり、どうしようもない。マイラは、ぼくの存在などありはしないかのように踊りつづけていた」。
 断片的で申し訳ないが、それでも書き手の心の動きは辿れると思う。来る日も来る日もクジラは獲れず、今年はだめかと諦めたとき、成功の知らせが届く。強烈な喜びに舞い上がったまま、自分の仕事である撮影を開始しようとして、歌いながら踊っている一人の老婆にふいに気づく。その姿には、苦難をともなった民族の歴史がみえるかのようだ。それは人間と世界が、生命において一体化しようとしている、感謝と許しの姿かもしれない。あまりの尊さに圧倒され、星野は写真を撮る気にはなれなくなる。
 ところで、このエピソードを再読していると、ボブが口にした「たましいのことを語るのを決してためらってはならない」という言葉の真意が、みえるような気がしてきた。星野はその場で撮影はできなかったが、その後に臨場感ある文章を残している。この事実に対してはさまざまな理解が可能だろう。まず、大きな感動も、時間とともに落ち着き、自分なりに解釈されるということ。そのとき、写真では描けなかったものを、言葉で表現しようとすることは、挑戦の名に値するということ。それは個人の成長に通じており、より大きな感動に適応していくことで、同じような場面にあっても次には撮影できるだろうということ。少なくとも、撮られた写真が「たましい」のことを誠実に語っている限りは、人間と世界が生命において一体化することに貢献しているはずであり、撮影という行為が、民族の歴史に非礼をおこなうのではないと、考えられるということ。
 ならば表現者にとって問題となるのは、「決してためらってはならない」の理解のされ方であり、生命に対する畏怖の感覚への挑戦のない者には、真の表現はあり得ないとも受けとめられよう。逆に捉えると、ゆっくりとした動きで何かに語りかけている老婆の踊りとは、神のような対象と対話している状態だといえる。詩人の中原中也は、河上徹太郎宛の手紙に「芸術とは、自然の模倣ではない、神の模倣である!」と記したが、ためらいなく踊る老婆は、神と同化したもののようにも、周りからはみえたにちがいない。

幹が最初に枝分かれするときの決断
梢の端々に無数の芽が兆すときの微熱
それが痛苦なのか歓喜なのか
人は知らない。
樹の目標は何か、完成とは何か
もちろん、人は知りもしない。

確かに、人は樹と共に長く地上に住んだ。
樹を育てさえした。
しかし、知っているのは
人に関わりのある樹のわずかなこと。
樹自身について
人はかつて何を思いめぐらしたろう。

今は冬。
落葉樹と人の呼ぶ樹々は大方、葉を散らし
あるものは縮れ乾いた葉を、まだ梢に残し
時折吹き寄せてくる風にいたぶられ
錫箔のように鳴っている。
地面に散り敷いた枯葉を私は踏み
砕ける音を聞く。

人の体験できない別の生が
樹の姿をとって林をなし
ひととき
淡い冬の陽を浴びている。私と共に。

 吉野弘の『陽を浴びて』(一九八三)から「樹木」を引いた。この作品には、語り手の率直さがあふれているものの、それは、「知っているのは/人に関わりのある樹のわずかなこと」という表現からも判断されるように、人間の能力である認識力に支えられていると思われる。その認識力によって、樹と人との関係を意識するため、ついには「人の体験できない別の生が/樹の姿をとって林をな」すことを、痛切に学ぶしかない。だが、相手を認識しようとして、両者の隔たりをますます感じる、そのぎりぎりの気持ちにまで追い込まれて自分を投げ出したとき、ようやく「淡い冬の陽を浴びている。私と共に」という経験を、ひととき得ることができたのではないか。それは語り手と樹が、「たましい」において共感している様子ともいえよう。
 もう一篇「多摩」を挙げる。

今は亡き村野四郎さんが
或る詩の中で書いておられる。
<霊魂を食べて、ふとるのよ>という声を聞き
胸が悪くなって目がさめると
<ベーコンを食べて……>
の聞き違いだったと。

村野さんは
もう、ベーコンを食べる必要もない霊魂になって
郷里多摩の丘陵などを徘徊しておられるだろうか。

村野さんの出生地は今の府中市
当時の東京府北多摩郡多摩村。

幼少年期をすごしたその土地を
村野さんは、こんなふうに回想しておられる。
「私は、武蔵野の西郊に何代となく続いた古い商家に生まれました。
数多くの古墳をいだいた低い丘陵は、多摩川のほとりから起り、白
い砂原や、赤い崖を露出させたりして、北方の楢や松の雑木林の中
に消えています。云々」
小学校は多摩小学校だった。

さて、次は私の聞き違い。
或る日
<魂に住んでらっしゃる方からのリクエストです>
というアナウンサーの声。
<多摩市に住んでらっしゃる……>
と判るまでの、めまいの一、二秒。
この時からあと
多摩市は
そして、多摩の名のある山川その他すべては
魂という名の透明なカプセルに入っており
時折
なつかしげな目配せを送ってくるのだ
頼りない文明に住む
頼りない一詩人に。

 こちらの作品では、自嘲のように「頼りない文明に住む/頼りない一詩人に」と、末尾がまとめられている。この頼りなさは、「魂という名の透明なカプセル」を意識した際に、あらわれた認識かもしれない。その位置から、作品の内容を溯るように味わっていくと、「多摩の名のある山川その他すべて」に対して気軽にうまれた畏怖の感覚が、さらに広がりを持ち、真剣なものになっていくのが感じられないこともないだろう。
 もともと、今は亡き先輩詩人の、ユーモアある聞き違いのエピソードを回想することから書き起こされ、「もう、ベーコンを食べる必要もない霊魂になって/郷里多摩の丘陵などを徘徊しておられるだろうか」との展開を得たとき、すでに畏怖の感覚は、抽象的ではあるが芽生えていたはずだ。しかし、そうした抽象的な形のままでは、詩の結論にできないという気持ちが、詩人にはあっただろう。そこで具体性を付加する方法として、先輩詩人と土地とのかかわりを描くとともに、その土地の名にまつわる自分の聞き違いのエピソードを続け、結果的に、「めまいの一、二秒」という表現を得た。大袈裟にみると、この一行は天啓につながったのではないか。なぜなら、「人々のために苦しむのだ。この世を救うために炎をもち帰るのだ」という経験に重なると思われるからだ。とはいえ作品が仕上がったとしても、「頼りない文明に住む/頼りない一詩人」にすぎないことに、変わりはない。これは辛い事実だ。だからこそ読者と向き合おうとして、詩人は作品「樹木」と同様の処理をほどこす。端的に述べると、自分の「体験できない別の生」のようなものが、「なつかしげな目配せを送ってくる」という、許しに包まれたエンディングである。
「だれもいない氷の上で、老婆がひとり海に向かって踊っている。ゆっくりとした動きで、何かに語りかけているように見える」。こうした、ためらいのない心境に、吉野弘はなれたのだろうか。いや、自分がそうなる必要を感じなかったかもしれない。社会のなかの弱い立場の者をみつめることも、人にとっては大切な仕事なのだから。けれども、氷の上で踊る老婆のことを、星野と同じくらいに愛しただろうとは、想像される。
 人はかつて何を思いめぐらしたか。それは、たましいのことを語るのを決してためらってはならない、ということではなかったか。互いに遠くにあって、まったく違う境遇にあることを、感謝と許しをもって認め合うことは尊い。ところで今、両親や仕事上の先輩を尊敬しているといえる若者は、どれくらいいるだろう。現代の日本では、どのようにわたしたちがたましいを失ったかを、人々は考えなければならないようだ。

(二〇一六年三月二三日 了)

profile

竹内敏喜(たけうち・としき)

詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)

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