今、詩歌は葛藤する 20
〜『影法師』、未来について語らないように〜
竹内敏喜
ここ数回の連載では、『聖書』をふまえて絶対の主なるものの働きを導く一方、ロラン・バルトの指摘からテクストの統一性はその宛て先にあることを示してみた。両者の関係を正確に見定めることは筆者にはまだ困難だが、年末に『ハンナ・アーレント伝』(エリザベス・ヤング=ブルーエル著)を読んでいて、ヒントになりそうな言葉をみつけることができた。それはアーレントが、悪の手段によって善になろうとする誘惑に抵抗できるものとして提示した内容であり、教皇ヨハネスについての文章中に見出されるものである。
「彼は、野の百合のように、いつも『一日一日、いや一刻一刻を生きる』ことに満足していた。そして彼は今、彼の新しい国家(教皇政治)の『運営の基本ルール』を定めた。『未来に関心をもたない』こと、『人間による未来への備えをしない』こと、『だれにも、確信をもってまた不用意に未来について語らないように気をつける』こと、である。『それをすることでだれかの役に立つだろうと期待して何らかの面で悪と共謀する』ことにならぬように彼を守ったのは信仰であって、神学的ないしは政治的理論ではなかった」。
善い人間に、悪い手段を受け入れるように誘惑するのは、歴史的必然という理屈や、神意の解釈に結びついた未来の善というイメージであることが多い。そうした選択へと陥る理性に対し、教皇ヨハネスは否定的なまなざしを向け、彼個人においては信仰を根拠として抵抗したらしい。ところで、ここで支えとなり得るのは信仰だけだろうか。そもそも、価値ある未来の想定の有無によって、その共同体を支配する思想は根本的に異なるはずだ。簡単な譬えで述べるなら、かつての遊牧民(自由人)は貯蓄が困難(未来像)であるがゆえに仲間に等しく獲物を分け与えた(平等)が、市民社会(機会の平等)では貯蓄格差を是正する名目(未来像)で規制を増やしている(不自由)。ここにおいて、教皇ヨハネスの発想は遊牧民の生き方に近いと理解できないこともなく、そうすると、市民社会のなかで神の使いを代表するヨハネス(自由意志)は、未来像(善悪)を拒否するゆえに平等に判断できた(信仰)、といった逆転的な解釈も可能となる。社会的に権威ある人物だからこそ、その行為の重要さが増したのも事実だろうが、ともかく、以上の解釈から、信仰に代わるものとして遊牧民における平等性が浮上すると考えられなくもない。
次に、「絶対の主なるものの働き」と「テクストの統一性はその宛て先にあること」との関係について、この教皇の姿勢からみえてくるものを考察したい。まず、先ほどの仮説をさらに簡略化するなかで、二つの命題を生み出してみる。(神から与えられる)自由は、(人間による)未来像を拒否するゆえに、(個々人は)平等である。(個々人の)自由は、(絶対的な)未来像を拒否するゆえに、(意味の収斂において)平等である。両者を比較するまえに、「主なるものの働き」と相関関係にある人間の性質について確認するなら、社会的に弱い立場にある者が主体性を得ようとしている点に、注目すべきかもしれない。自らが主人となることを放棄して、神に完全に服従することによって主体性を獲得し、結果的に精神の安定を取り戻しているからだ。この実態をふまえ、神と個々人との相関関係を肯定すると、二つの命題の差異を難なく消せることに気づく。例えば、(主体性における)自由は、(他の主体による)未来像を拒否するゆえに、(意味の隠匿性において)平等である、と読みかえられるのではないか。もちろん、これでは空虚な言い草でしかないため、時代時代により、さまざまな遠近法が加わるのも当然だ。混沌とも感じられる現在の「平等」の傾向を見極めることは、現代の遠近法を確認することにもなるが、それは対人関係、とりわけ友人との対話のあり方のなかでみえてくると思われる。
「この度は『影法師』をご恵贈くださり、ありがとうございます。読ませていただき、土着的なものへの視線と、抽象化への手腕を、印象としてまず持ちました。これを作者の等身大を想像しつつ、換言したなら、ノスタルジーとの葛藤と、表現力における自己鍛練とも思われてきます。それは、詩集タイトルに込められた意志としても、読み取れそうです。あわせて、作品で描かれようとする内容が何なのか、影のようにほとんどはっきりしないので、作者は詩歌との関係において冷めた位置にいると感じられます。つまり、イメージをより徹底したり、思想化することを投げ出している部分が、内容に対してはあるのでしょう。けれども現代詩としての方向性としては、意識的にか無意識的にかわかりませんが、明確な一歩があると判断できます。なぜなら、世界を批判する気持ちが作品の奥行きからしっかりと伝わってくるからです」。
著者から詩集を贈っていただき、そのお礼を述べた際の手紙の一部を引用してみた。自分の書いた拙い文面を再び目にすると、感想をまとめようとしたときの気分が甦ってこないこともない。『ハンナ・アーレント伝』を読んでいたときでもあったので、自分のなかに本物への緊張感が充満していた。その影響もあってか、久谷氏の今回の作品が、どんな未来を望んでいるのかと考えずにはいられない心境だったといえる。彼との浅からぬ付き合いもとっくに十年を過ぎている。「明確な一歩」を進められるのは、孤独を覚悟した者にちがいなく、覚悟した者同士が出会って共感をおぼえる機会はあるにしても、それぞれの道は異なった方向に続くだろうといった、静かな感情もあった。
詩集『影法師』(二〇一五)から作品「物理」を挙げた。おそらく、ここで描かれようとしている内容をつかむためには、こちらの想定以上に、詩人による描き方の癖を受け入れなければならない。少なくとも、独立させられた最初の一行「花をほどく」を作者が客観的にほどいていく行為が、この作品の語り手の言葉を成立させているとはいえ、その際にしだいに浮き彫りになるのは、「花」という対象の本性ではなく、「花」にかかわろうとすることが「物理」の実践に似てくるといった作者の意識であり、またこの自意識の地点で読解の輪郭を留めてはいけないとの詩人による警告が、最終行の「愛するはずだつた」に込められていると思われる。以下、作品全体を詳しく探ってみたい。
作品の前半では、花の内部に隠されているものへの探求心と、そこで見出した蜜のからさを体験し、ふいに聴覚による鋭敏な反応が材木を組む音を聞き分けるさまが窺われる。これを造形面への作者の認識方法だと読めば、物質の内部への期待と、その対象に拒絶されることへの自己の不安を描きつつ、その際の緊張感が物質そのものの本質を反射的に見抜けることで、自己の精神を安定させられるといった作法が示されているようだ。そこで、蜜の垂直性が「真夏の川」を支えること、その川のなみがしらの裏地に「ぶりきに映る黄昏」等が隠されること、およびそれらが「みぞおち」を漂う感覚を、「物理のけはひ」だと受け取っている。仮に、「垂直」が空間性を、「川」が時間性を象徴していると捉えると、「なみがしら」という不安定な状態の後ろに「ぶりきに映る黄昏」を感じるとは、おそらく「オズの魔法使い」のイメージを重ねながら自己の人生を振り返り、ブリキのロボットのようだったと思う今の哀れみを込めているらしい。しかし、この自覚は他人には秘すべきものだろうから、なおさら「物理」というヴィジョンが強調されたのだろう。
作品半ばの「髪を/光らせて/草の上にしやがむ人よ/立つ力よりも/しやがむ力に/ゆがめられた足を/わたくしは愛する」という描写は、先ほどの「川」の辺りの風景だと読んでみる。換言すれば、「わたくし」の愛を表現できる場所としての「真夏の川」の意味が、前面に出てきたと受け取ってみたい。これも精神安定の作法だが、愛に対する好みを語ろうとしていることで積極性がある。「立つ力」より「しやがむ力」で「ゆがめられた足」を愛するというのは、優しさを与え続けようと耐えている姿勢だろうか。まさしく「髪」は神々しくも光っていなければならない。これはロマン主義そのものだ。
しかし末尾では、「蜜を動かす息つぎで/かたどるやうに/愛するはずだつた」とされ、昆虫が花に授粉させる行為で譬えているようだが、自分にはそれが成立しなかったとの告白でまとめられる。あわせて「かたどるやうに」とは、他者への誠実さのあらわれであると同時に、物理的認識への皮肉とも読める。ただ、「愛するはずだつた」はとても重い言葉だ。重いゆえに、「花をほどく」と「愛するはずだつた」との関係は、淫靡なものへと変貌しかねない。最初から異性のイメージを意識して創作されただろうし、愛し合えなかったことへの恨みが込められているようだが、この気持ちがどんなものなのかは表現されておらず、諦めにも似た断崖ばかりが伝わってくる。結局、「ほどく」ことの空しさが後味として残り、その感覚は詩人の内部で留められたような印象となるのではないか。
もう一篇「咲かない花」を引く。
物理的作法で演じられたロマン主義も、ここでは現実の風景を噛みしめている。おそらく「おまへ」と「わたくし」との関係は、理想としての自己と、生活者としての自己だろうけれど、互いに慈しみあっているのがいじらしい。二つの自己は、それぞれの仕事の軽さを、「毛布一枚へだてたまゝ たしかめあつて」いるくらいに近づいている。なぜなら、「愛が最後には/さかのぼるものにしかならないことに/ふりむく朝の わびしさよ」という地点で、日常を受け入れるしか、語り手には方法がなかったからだ。とはいえ、生きている限り、肉体の近辺は汚れていくから、「ひえきつた下着を洗ひにゆかう」というくらいの行動は必要になる。だが、そのときこそ、意識は「まぶしい嵐」をみつめるのだろう。これは目の前の風景の彼方にある真実を見逃さない嗅覚のようなものであり、物理的作法で演じられたものではない。確かに、詩人は生きているのである。
ちなみに久谷氏は正義感が強い。その観点から、詩集を読み解くのもおもしろいだろう。教皇ヨハネスほどの信仰もなく、遊牧民における平等性を享受しているわけではない現代の生活のなか、教育者でもある彼はどんな立場を選んでいるのか。作品では「どちらの岸辺から、流してあげればいゝのか」と、判断を停止した様子を語ったりもするが、論理で導かれる善への誘惑に負けることなく、未来について語らないというのは、彼の性格に似つかわしい。「わたくしに尋ねるのは なにものだらう。」と、いつまでも耳を傾けていてほしいと思う。それは、さかのぼるべき愛を、いつか輝かしいものとするだろう。
竹内敏喜(たけうち・としき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)