今、詩歌は葛藤する 19
〜『形式は反動の階級に属している』、中間的なものとして存在すること〜
竹内敏喜
前回の内容のように、あまりに『聖書』によりかかって考察したときなどには、必ずその反動が自分のなかに起こる。反動が、単にバランスを保つためのものなのか、あるいは新しい一歩となるのか、それはすぐにはわからないけれども、今回の場合、反神学的という面から、ロラン・バルトの「物語の構造分析序説」(一九六六)や「作者の死」(一九六八)を読み返したくなった。そこでまず目を引いたのは、次の指摘である。
「物語は要約の対象となるのだ。一見したところでは、どんなディスクールもそうである。しかし、それぞれのディスクールには、それぞれ要約の型がある。例えば、抒情詩は唯一の記号内容の果てしない隠喩にすぎないから、抒情詩を要約するということは、この記号内容を示すということになるが、この操作はあまりに抜本的なので、詩の自己同一性を消し去ってしまう(要約されると、抒情詩は『愛』と『死』という記号内容に還元されてしまう)。詩は要約できないという確信は、ここから生まれる」。
個人的には、この見解に同意できる。そのうえで、日本の現代詩が、過去の抒情詩を拒否しながらも強く妬みつづけ、別の方法を不器用に試みてきたのは、こうした背景があるからだとも思われる。詩は要約できないという確信に歪んだ意味を付加し、愛や死から意図的に目をそらした詩歌が、隠喩という位置に自己の根拠をゆだねたのはしかたがないのかもしれない。しかし、方法の探求はやがて自在さの獲得につながり、他の方法との差異はさほど問題ではないと気づくはずだ。まさしく、空に輝いている一つの月はどの川にもあまねくその姿を映し、どの川にも映っている月は空の一つの月におさまる、という現実を会得せざるを得ないのである。そのとき、自分の身についた詩歌とのかかわり方に幸福な感覚を見出して、例えば温故知新へと誠実に向かえる者はどれくらいいるだろう。共に語れる友は少ないだろうし、世の生活者との日常感覚の大きな隔たりに愕然として、惑う者もいるにちがいない。一枚の木の葉も月を隠すに足りる、ということか。仮にその者が、一度は身につけようとした詩歌による視線を心から遠ざけ、他者の欲望にまぎれこむ生き方で安心を得られるなら、詩人は惜しみ追ったりはしない。なぜなら、社会のあり方に同化することで自己という意識を持続できる者を、真の詩人とは認めないからである。
逆の辿り方で捉えると、例えば中学・高校という場所が知識の詰め込みを教育手段とするなか、結果的にある形式にそった人格ばかりを作ろうとしている事実に、教える側が気づかないとしたら、個人的な好悪の問題は別としても、幾人かの学生は違和感をおぼえるだけでなく、根本的な不幸に陥らざるを得ない。そうした学生には、学校で与えようとする知識より、他の特別な知識こそふさわしく、それに接しなければ人格形成が進まない可能性さえあるからだ。特別な知識とは、記号に変換して簡単に説明できるものではなく、むしろ記号と記号の中間に存在する、いわば詩歌のようなものだろう。しかしながら、こうした中間的なあり方を排除してきたのが、近代以降の日本的民主主義のあり方であった。そのため、学校や家庭に居場所をみつけられないまま、自己に閉じこもるしかない子どもを多く発生させ、同時に、模範をよそおう子どもたちによるイジメという排除行為を支えたのも、実はこの社会体質だったと理解できる。ある意味で、それぞれの共同体や組織が、中間的なものを受け入れようとする転換のことを、全体として成熟するための社会のイニシエーションだと考えられるかもしれない。それは、言葉などの記号では割り切れない、いたわりの行為に通じている。さて、ロラン・バルトがおこなった物語の構造分析を、こうした転換の核心をついたものだと見定め、読み直してみることにしたい。
「発信者の役割は、盛んに解説されてきた(といっても、小説の『作者』が研究されているのであって、それが果たして『語り手』であるかどうかは問われていない)。しかし読み手の問題となると、文学理論は、はるかにつつしみ深くなる。実際、問題は、語り手の動機を洞察することでもなければ、物語行為が読み手におよぼす効果を洞察することでもないのだ。語り手と読み手が物語そのものを通じて意味される、その際のコードを記述することである」。
「この変革は物語を、純粋に認知的な秩序(物語は現在までこれに属していた)から遂行的秩序へ移行させることを目指していて、この遂行的秩序によれば、あることば(パロール)の意味とは、そのことば(パロール)を発する行為そのものとなる。今日、書くということは、『物語る』ということではない。それは物語っているということを告げることであり、指向対象(言われていること)の全体をこの発話行為に引きもどすことである。だからこそ一部の現代文学は、記述的であることをやめて他動的となり、ことば(パロール)のなかに非常に純粋な現在を実現しようとつとめる」。
「人間は自分が知ったこと、経験したことを、たえず物語に注入することができる。しかし少なくとも、ある形式のなかに注入するのであって、まさにこの形式が、反復に打ち勝ち、生成のモデルをつくりだす。物語は見せるわけではなく、模倣もしない。ある小説を読んだとき、われわれを燃え立たせるかもしれぬ情熱は、『視像(ヴィジョン)』に属する情熱ではない(事実、われわれは何も『見る』わけではない)。それは意味の情熱である。つまり、関係という高次の秩序に属する情熱である」。
「批評は、作品の背後に『作者』(またはそれと三位一体のもの、つまり社会、歴史、心理、自由)を発見することを重要な任務としたがる。『作者』が見出されれば、『テクスト』は説明され、批評家は勝ったことになるのだ。したがって、『作者』の支配する時代が、歴史的に、『批評』の支配する時代でもあったことは少しも驚くにあたらないが、しかしまた批評が(たとえ新しい批評であっても)、今日、『作者』とともにゆさぶられていても少しも驚くにあたらない。実際、多元的なエクリチュールにあっては、すべては解きほぐすべきであって、解読するものは何もないのだ」。
「エクリチュールは、意味の組織的免除をおこなう。そのことによって、文学(というよりも、これからはエクリチュールと呼ぶほうが良いであろう)は、テクスト(およびテクストとしての世界)に、ある『秘密』、つまり、ある究極的意味を与えることを拒否し、反神学的とでも呼べそうな、まさしく革命的な活動を惹きおこすのである。というのも、意味を固定することを拒否することは、要するに、『神』や『神』と三位一体のもの、理性、知識、法を拒否することだからである」。
「一編のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディー化し、異議をとなえあう。しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは、作者ではなく、読者である。読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。しかし、この宛て先はもはや個人的なものではありえない。読者とは、歴史も伝記も心理ももたない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場に集めておく、あの『だれか』にすぎない。(略)読者の誕生は、『作者』の死によってあがなわれなければならないのだ」。
引用が多くなったため、余分な解説を付さないことにするが、これらの文章から明確な思想を受け取るのは困難ではないと思う。それこそ、ロラン・バルトが後に、「神話作用」(=「意味を固定することの拒否」からの展開?)や、「テキストの快楽」(=「解きほぐすべき」からの展開?)というように、両方向へ自己の探求を推し進めていった姿勢を、想像することもできよう。「読者の誕生」が、いわゆる人類の楽園喪失によってまねいたものだと仮定できるなら、意味の絶対性が消えたと解釈すべきだが、現実はそうではなく、人間社会でしか通用しない意味の自転車操業を余儀なくされた、と理解した方が正確らしい。それは、現在のインターネットでのコミュニケーションを成立させている世界観にも、一面では似ている。この事実は何をもたらすのか。
まず、皮肉なことだが、政治的権力者にとって都合の悪い教育内容の隠蔽である。それは、中間的なものを受容するといった、社会全体にとってのイニシエーションを、まったく認めようとしない独善性につながる。さらには、その独善性を攻撃することも別の独善性となるような不幸な連鎖状態であり、互いに相手を貶めるだけの空虚な環境でしかない。これでは各々勝手なユートピア幻想の集まりだ。ここを乗り越えるためには、やはり中間的なものが必要ではないか。隠喩のような記号の作用による意味の圧力ではなく、記号自身の裂け目をさらそうとする詩歌の能動的な態勢であり、具体的には愛や死といった人間の限界をふまえたうえでの、いたわりの沈黙を秘めた詩的な達成だろう。詩的であるとは、日常と切り離せないからこそ詩のようなものとして留まり、詩のようなものであることで、だれにとっても中間的なものとして存在することだといえる。それは必ずしも通俗性ばかりを意味するのではなく、「読者」が「だれか」になることを促す機会だと理解すべきだ。つまり、転換への誘惑なのである。
稲川方人の詩集『形式は反動の階級に属している』(二〇一五)から、作品「磯辺を行く亡き母に捧ぐ」を挙げた。この詩は、手紙の引用ではじまる作品であり(いわば「読者の誕生」を発端とする)、他者から届く言葉において、すでに一種の道筋が示されていると判断できる。換言すると、「罪の証明」や「背く」をどのように解きほぐすかが、作者を含めた読み手に問われているといえよう。ひとまず語り手は、悲しみ深く「あなた」を思い返しつつ、死者を供養したい気持ちを示すと同時に、若い日に自分のなかで切断された己の夢を、底の底から再生させる。それは、自然の流れに対して受け身であった孤独であり、やがて切断面に至れば、「生きる家をなくす」感覚を甦らせるもののようだ。
喪失の必然性を知ることができなかったと断念することで、むきだしになった「少年」は、逆に宿命に対して満たされ「みずから満月」となり、敵(?)であった「死んでいる者」らの遠ざかる姿を認められるようになる。また、「花の名」つまり一種の達成(死によって?)に対して名をつけられる行為を恥じらう「あなた」を、「ひと重の瞳」の月となった少年は、未来へと導く。こうした達成に至るまでには、多くの葛藤もあったが、それは星座のように洗練され、こちらに向かって慈悲の様子をあらわしもする。この慈悲が未来と呼応することで、意味を持続させるのだろう。「あなたの手紙」は、語り手の心のよりどころとして変わることのない愛情を示し、また語り手にとっては、人間として誇り高いものと受けとめられる。こうした和解を、世間では理想化しているとはいえ、実際に目の前にすると、人は「眼を逸らす」。それは「鋼の戸口」のようであり、寂しいことでもある。そのため語り手は、自分の内側に、今学んだ大切なことを無言で刻みつける。それは「処罰の日」を意味せざるを得ない。まさに手紙にあった「罪の証明」をそのまま甘受することであり、おそらく罪とは単独者(異端者)であることを指している。
語り手は、彼岸との境界である「磯」へと歩く母と別れると、「忘れられたわたしの靴」をみつけ、自分の場所を見失ったかのように、「充ちてある往時」が閉ざされる印象をおぼえる。そのとき、再び亡き母の手紙の言葉が心に浮かぶ。それは、「わたしの亡骸」に、「ふたり」の「ただひとつの眼差し」を「いつの日か」迎えるとの約束だ。これは、「いつの日か」という条件の内容を述べないことで、語り手の前途を信じる強さを表現しているのかもしれない。ここから、「背く」とは、母を背くことではなく、世間を背くことだと受け取れそうだ。あわせて「ひとつの眼差し」は、「だれか」の位置をあらわすと考えてみたい。いずれにせよ、母が子にいたわりをそそぐ感覚が伝わる作品だといえる。
無謀な解釈を並べたが、この行為は、詩作品に近づくための最初の一歩として、どうしても必要だと思われる。そのうえで作者自身が試みているように、「読者」であることの位置を確かめるなら、自分を「だれか」とみることができよう。また、読みの方向がズレることは誤読だと捉えられるが、そのように自己の位置をふりかえることも、「だれか」の内容にいずれつながると考えたい。大切なのは、作者のなかに発生した「抒情詩」の感覚が、「中間的なもの」として読者の内面で芽吹き、持続されることだからである。
竹内敏喜(たけうち・としき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)