今、詩歌は葛藤する 18
〜『故郷の水へのメッセージ』、単なる理念ではない成就〜
竹内敏喜
この連載では、現代日本の自由詩について主に考察してきたつもりだが、自分の思考方法が現代詩を読む態度にふさわしいのかどうか、確信を持てずにいるというのが正直な気持ちだ。実のところ、金子光晴(一八九五〜一九七五)の残した作品が自分にとっての自由詩の模範であり、彼の詩業から受けた強烈な読書体験を超えるような、決定的な作品を示してくれる現代詩人との出会いがなかったことを、むしろ自分の限界として認識しなければならないのかもしれない。その意味でも、自分の方法は、近代文学を読む態度のヴァリエーションに近いのではないかと感じることがある。
柄谷行人氏の優れた著作『近代文学の終り』(二〇〇五)に倣って述べるなら、社会への直接的な影響力を失った現代文学のあり方の本質は、娯楽性に尽きるということになる。すると、現代文学を批評する方法としては、今という時代性が求める娯楽の質を前提としたうえで、その娯楽性との新鮮な距離感をはかれる技能的な完成度により、作品の可能性を探ることになるだろう。これは一面では、「秘すれば花」(世阿弥)の忠実な実現に似ている。ただし、絶頂期の世阿弥の意識においては、能そのものの深化のために「秘すれば花」という方法が有効だったはずであり、その試みは、作品の深化を楽しめる鑑賞者が少なからず存在したことで支えられていたといえる。それが世阿弥の幸運であったのは間違いなく、近代文学が成立していたのもそうした幸福な時代であった。
芸の世界において、幸福な時代の後に娯楽性の支配する時代が訪れる現象については、プラトン以降、たいていの分野で繰り返し言及されている。ひとまずこれは、芸の形式の固定化や、ダイジェスト化によると考えられよう。あるいはスポーツやゲームのように、小さな形式の完全性に人間にともなう意外性をぶつけつつ、得点差やタイム差によって勝敗を決定する方式に似せることで、多くの人の感じる娯楽性にフィットしていったのかもしれない。その点、文学において推理小説の人気が根強いのも、同じ理由だと思われる。現代では、情報公開能力の世界的な発展にともない、作品内容の深化よりも、作品をめぐっての話題性をいかに演出できるかが、受容者とのかけひきの大きなポイントとなっている。そのうえ受容者の多くも、作品を楽しむ以上に、世間で流布する話題内容の確認や、期待感と比較しての端的な感想を得るために、作品と向き合う時間を確保するかのようだ。逆に述べると、受容者自身が想定した「向き合う時間」以上の時間を必要とする作品に対しては、おもしろくないとして拒否反応を起こす可能性が高まっている。以上から敷衍し、成熟した社会が経済活動を中心に成立しているなら、その経済に大きな影響を与えるのは、受容者のきまぐれだといえないこともないだろう。
ところで、人類とは歴史という積み重ねを肯定する生物だと仮定すると、作品内容を深化させる努力は、気づきにくい場所において、停滞することなく持続していると考えられる。なぜなら人類の経験する時間が蓄積されるほどに、出来事と出来事の因果は複雑になり、歴史解釈の内容が表情を変えるだけでなく、解釈内容と人類との関係そのものも次元を変化させることを、人類は学んできたからである。この経験から、過去の解釈を焦点とする対立が、今後もいたるところで起こると容易に予想されるが、利害関係がからむとなれば、事実の捏造も頻出するにちがいない。いずれにせよ全体的な傾向としては、歴史記述への信頼の念が人類から薄れていくとともに、個別的解釈をできるだけ排除した情報化の方法が探求されるだろう。まさに映像と音声による生の記録への盲信に近づくわけだが、これはこれで事後的な解釈をさらに多様化させているようだ。それは歴史の完成というより、分業化に近く、思考の論理化を進め、詩的なものを排除する行為とも受け取れる。
そうした位置での個々の心の状態を覗けば、社会適応の意志より、自己防衛の様子がみえてくる。そういえば現代人は、言語表現による刺激に対し想像力を活発に働かせる能力を、近代人に比べても抑圧させてきたと思われる節がある。その要因を探ると、例えば現在の日常生活の場は一種の監視社会へと進展しており、防犯や安全のためとはいえ、過剰な情報収集を手段としている。試みに観察する側のおかれた環境をみれば、立場によって対象との密接性に差異はあれど、対象の行動を記録する高度な技術的能力、相手の動機を計算する豊富な形式的方法、記録考察した結果を公表できる社会共有された場、また公表者の匿名性が安易に手に入るという条件さえ整っている。その結果、公表の場との関係を持とうが持つまいが、だれもが何らかのターゲットになっていないとはかぎらない。
この事実に対する不快感や恐怖感を、空想において体験させてくれたのが、自然主義に基づいた近代文学であり、読書中は日常性から離脱できただけでなく、物語を一巡することで読後に気分が浄化され、自己の主体性の持続にもさほど問題は起こさなかった。だが、監視される感覚から逃れられない生活を送る今、主体性を健全に持続するためには、どこからともなく迫る管理される感覚を忘却させる機会が、逆に必要になっているとも思われる。そこで、自分のための個室が存在する意義について考えてみたい。その密室には、できるだけ自己を不快にさせるものは置きたくないはずだ。書物であろうとDVDであろうと、内容に接したときに嫌なものを感じた対象は、とりあえず部屋から排除されるのではないか。その行為がエスカレートすれば、どんな場所においても、ふれたくないものにはふれたくないため、想像力の働きを無意識的にセーブするにちがいない。つまり、親近感をおぼえるものだけに一種の清潔さをみることになり、いつしか、そうした自己の行動に疑いを持たなくなるだろう。これは他人には、むしろ不潔な印象を与えるのだが。
とはいえ、そうした空間の維持は困難である。なぜなら潔癖化が進めば進むほど、かつてその部屋に入り込んだ嫌なものの印象が、けっして消せない汚点として、妄想のなかで存在を主張するからである。また、嫌なものは、対人関係、社会慣習、法的権力などのかたちでも現れる。それらは霊的とも呼べる存在になり、部屋の外で見張っていると感じられることもあろう。あるいは嫌な相手を前にしたなら、相手の弱みを大声で攻撃しつつ、相手の主張をまったく受けつけないことで、その場を支配しようとする者も少なくない。しかし意識下では、「いったい、どうすればいいのか。自分を否定しようとするものがやって来るが、それらを消滅させられないのだから、逃げまわるしかない」と、無知で弱い自己をなんとか隠そうとしている状態かもしれない。こうした過敏さは、程度の差こそあれ、不安を抱える現代の生活者に普通にみられるものだ。
「わたし(キリスト)が来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法のなかの一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます」。
これは、「マタイの福音書」の第五章にある言葉だが、『聖書』自体に関してだけでなく、法のような形式に対する、非常に重要な指摘だと思われる。いうまでもなく、その集まりが共同体と呼べるものなら、内部や外部との間に何らかの決まりを持つ。法の背後に神があろうとなかろうと、法組織の側からみると、個人とは抽象的な存在にすぎない。そこではすべての人が法にかかわる者となるため、法のもとで厳格な態度をとる律法学者などが、より強い権力を握っていると感じられるだろう。そうした存在は、娯楽を好む一般の人々にとっては嫌なものであり、法をふりかざす律法学者などいない方が良いと考えても不思議はない。そこに、救い主であるキリストが出現し、律法を「廃棄するためにではなく、成就するために来た」と告げたなら、どう思うだろう。
はたして、この言葉の意味するものは何なのか。それは、その後のイエス・キリストの行動から読み取るしかない。例えば、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子(キリスト)は安息日にも主です」とのイエスの発言は、そのヒントになるだろう。それは、安息日という法の成就する様子を示しているともみえる。だが、今回はこの問題に深入りしないで、「廃棄」と「成就」というキーワードを、以下の考察で利用するだけにとどめる。
先ほどの柄谷氏の提示した現代文学における娯楽性の意味するものは、近代文学という法との関係をふまえて判断すると、どちらかといえば近代文学の廃棄だろうか、成就だろうか。表現の場での人類のたいていの挑戦は、技能的な達成のあと、庶民のための娯楽へと一般化し、経済的効果はともかく、作品そのものの絶対的な価値はあいまいにされてきた。美術館や博物館や図書館に懇ろにおさめられることが、作品の価値の社会的な保証となるわけではなく、作品の側からすれば、無理やりミイラにされ、陳列させられている気分になっていてもおかしくない。観客にあっても、飼い慣らされた作品を眺めて本物を感じるはずはなく、自分が管理(ミイラ化)されていくのに気づくこともあろう。この時点では、「主」とは管理された庶民自身のことになるが、ここにイエスの語る成就があるとは考えられない。ところで、こうした環境整備は、個室に閉じこもる個人にそっくりではないか。それはやはり、幸福な姿とはみえない。
次にイエスを真似て、作品にとっての成就の一例らしきものを探ると、「作品は人間のために設けられたのです。人間が作品のために造られたのではありません。人の子(キリスト)は作品に対しても主です」となるが、これは表現者にとっては耳の痛い内容だろう。娯楽性に支配された現代では、表現行為に夢中になることで、かえって作品の奴隷となっている作者がほとんどであり、その状態を乗り超え、作品と自在な関係になりつつ、その彼方に一種の生きた「主」を感じる者は少ないからである。こうした解釈の延長で、成就とは、世阿弥や芭蕉といった、その道を徹底した一流の個人において、稀に成立する出来事だと理解した方が正しいのだろうか。いや、それは彼らを預言者とみる『旧約聖書』の世界観だ。その道の法をかたくなに守ることと、その道の「主」を崇めることで法への信頼を広げていくことには、次元の違いがある。確かに世阿弥や芭蕉は、その道の法のようなものを守り、守るように教えたことで偉大であった。だがそれだけでなく、後世の人々にとっては、世阿弥や芭蕉こそ、その道の「主」として崇めることができ、芸への信頼を保たせてくれる対象となっているのではないか。ここにおいて人は成就へと向かうことができる。イエスが、弟子は師を乗り超えられないと語ったのは、この意味なのだろう。
一方、娯楽性は余暇とともにうまれ、強烈さや直接性へと進む。いささか飛躍すると、それは空間を獲得することで外部を隠蔽し、自己とその仲間のミイラ化を進める行為に近い。法をふりかざす律法学者も、映画などで戯画されるように、自己の楽しみという半面があったはずだ。見方によれば、これも自己防衛の態度だろう。思いかえすと、成就を学ばない点に人類という共同体の不幸の秘密がある、という点にまで、柄谷氏の指摘は届いている気がする。つまり、成就は単なる理念ではなく、救いに通じるものなのである。
引用したのは、大岡信の『故郷の水へのメッセージ』(一九八九)の冒頭作品「この世の始まり」である。あえて解説の必要がないくらい、明確な作品だ。「人間はそれを ただひたすら/さかのぼって 胸ときめかせ/聴きにゆくだけ。」という一節に、読み手がどれくらい感情移入できるかで、味わいは変わってくると思う。「四十六億歳になる 水の蘇生!//このあっけない けれど神秘な/時の蒸発。」が、人の心にとってのもっとも大きな枠組みであり、ゲーテの誇りが小さくみえるくらいの位置で、現代の詩人は「胸ときめかせ」てきた人類を想像している。また、そのうえで故郷の水を眺める作者がおり、大きな気持ちをもって、のびのびと生命観を描く詩集となっている。
さて、人が、その「対話」を、「さかのぼって」、「聴きにゆく」という事実。これは真実や美の探求であり、絶対への憧れであろう。人類という過程のなか、「人間はいはば自然と神の/最初の対話である」と見定めることが、この一文の受け手に力を与えることもあった。後の時代では「自然と神の最初の対話は/人間なんか影も形もなかった太古に/すべてもう終ってゐた」と切り返すことで、興をそそった。そこへ、「人間はそれを ただひたすら/さかのぼって 胸ときめかせ/聴きにゆくだけ。」と、ささやく者が現れ、人々は静かに頷く。これも単なる理念ではない成就であり、人類の心の歴史である。
最後に、柳田国男の著書『なぞとことわざ』から、「言葉争ひ」の部分を紹介したい。「最初は真剣に敵を嘲り、身方を腹いつぱい笑はせるのが目的であつたことは、大よそ確かであります。今日は喧嘩といふものがだんだん少なくなりましたが、まだ時々はつかみ合ひをする前に、暫らくの間は諺の売り言葉に買ひ言葉を、闘はしてゐる人があります。(略)この勝負は脇に聴いてゐる者の中で、笑つてくれる人の多い方が勝ちであつたゆゑ、いつも出来るだけ頓狂な、をかしいことをいはうとしたのであります。すなはち相手を笑はせる積りではなかつたのであります。ところが今では相手の人までが笑つてしまつて、めつたにそんなことで怒る者はありません。(略)つまり相手が閉口といつて、何もいふことが出来なくなれば勝ちであります」。一昔前の、幸福な心がみえてくるようだ。
竹内敏喜(たけうち・としき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)