今、詩歌は葛藤する 17
〜『夏の宴』、持続される魂の次元〜
竹内敏喜
前回の文章を仕上げながら、キーワードに対して消化不良に陥っているとの思いがあった。それでもこれで良しとしたのは、全体として大切な何かに近づけていると感じたからだといえる。その道筋を明瞭化するために、モチーフとして「文化的成長の段階」「覚醒的な祈り」「無償の行為への憧憬」「心の豊かさ」「生命の輝きと似たもの」「肉体に宿るものを通し」「他者になり得るもの」などを抜き出し、それぞれがどのような関係で捉えられるか、あらためて整理することは不可能ではない。例えば、「文化的成長の段階」といった観点から眺めるなら、「生命の輝きと似たもの」を知っていることを出発の条件として、さまざまな形式を「肉体に宿るものを通し」て学ぶことができ、やがて自然のなかにあることの「覚醒的な祈り」に至れば、いつしか「無償の行為への憧憬」に落ち着く。ここまでが段階の話だ。この地点を超えれば、身についたさまざまな形式が崩れていって、存在の向こうに不可知なものとしての「他者になり得るもの」を見出すが、それは意味という接点とはかかわりなく、「心の豊かさ」に気づかせてくれるものでもある。
「他者になり得るもの」との出会いによる「心の豊かさ」については、ささやかな体験を述べることで具体性を付加してみたい。現在の職場が東京駅の近くにあるため、日本橋から京橋・銀座あたりを歩く機会も多いが、あちこちの画廊に目を向けると、ときに能面の展示をしている。愛好家の会の発表会みたいなものらしく、たいていは古面のうつしで、素人の目からみると、忠実で丁寧な仕上がりだと感じないこともない。そこで、ひとつの作品としてじっくりみつめ、感想を心のなかで言葉にしようとしていたら、きれいすぎる、という一言が飛び出してきた。要因はいろいろあるだろうが、結果的にかたちが整いすぎると、動きがなくなるだけでなく、未知なる力があふれてこなくなるようだ。一見して、魅力的な美人の面相で仕上げられているからこそ、感情表現が平板にならざるを得ず、演技者も使いづらいものとなるのではないか。ただし、飾りものとしてつくられているのなら、視線が邪魔にならない仕上げになっている、との理屈で納得することはできる。
それに比べ、美術館などで間近にみた古面には、つかみがたい何かが秘められているような不安定な印象もあって、こわさに似た緊張感をおぼえたものだ。舞台上なら表情の変化にさらなる振幅がうまれ、空間全体を引き締めるのは、面からあふれる力に外ならないとまで思われよう。その緊迫感からは、人の心の発する訴えが伝わってくるが、物語のなかにしみ出る情感の流れや、演技者の心理表現である以上に、面の奥行きに隠れていたものが動き出したとも感じられる。もちろん、能面の表情に魂を与えるのは身体のかたちであり、「でき場(結果)を忘れて能を見よ。能を忘れてシテを見よ。シテを忘れて心を見よ。心を忘れて能を知れ」という世阿弥の書き残した秘伝の一節をふまえると、その隠れていたものとは、能そのものにつながると考えたくなる。このように、能面と向き合うことが、「他者になり得るもの」との出会いに通じ、鑑賞者を未知なる省察へと導くこともあろう。しかしそれは、「生命の輝きと似たもの」とはやや違う気がするのも事実だ。
唐突だが、ここで連想させられるのは、天使と堕天使の関係である。仮に、天使が「生命の輝きと似たもの」の純化された姿だとしたら、堕天使はそれが過剰になったものにちがいない。つまり、強すぎる輝きによって他の存在を破壊しかねない力であり、だからこそみつめたなら目がつぶれるような対象として、闇に近い姿で表現されてきたと想像される。ところで堕天使は、何をきっかけに現れるのか。天使としての能力を過剰に持ってしまったためか、それとも天使の能力以外の能力を持ってしまったからなのか。この違いは天使の性質を知ろうとするなら重要な要素だが、いずれにせよ、素朴な論理の辿りつくところは、天使は天使であり続けることはできるが、能力において堕天使に勝てないということである。この命題はどんな意味を導くだろう。一説によると、生命とは死なないように生きていくことだとされている。ここに命題の内容を当てはめたなら、種としての生命の輝きの維持が天使の意味であり、死なないような努力を過剰にする個の存在、もしくは生命のもとでの能力以外の能力を身につけた存在を堕天使だとみることができそうだ。
この図式を人間の世界に重ねて、さらに空想をふくらませてみる。現在、人が創造行為にかかわるとき、創造されたものを公表する権利は、ある程度まで認められている。認められていないのは、大雑把に述べると、その共同体で保たれている秩序を過剰に乱すおそれのあるものであり、この国では、死体にかかわるもの、裸体にかかわるもの、政治的に抑圧されたある種のもの、個人のプライバシーや著作権にかかわるものなどだろう。表現者の欲求が、これらの禁忌に近づくとき、表現者は自己の内部に保たれている秩序の根拠に挑戦することになり、その成果を示した作品を共同体に対して公表する際には、鑑賞者にも自分と同様の挑戦をひとまず楽しんでほしいとの気持ちでいることは多い。
けれども、その表現行為に共感する者はたいてい少なく、作品だけでなく作者も批判されるのが一般的な傾向だといえる。このとき表現者は、情熱的な生命力という点では他者より高まっており、共同体内の立場としては他者より低くなっていると判断できよう。過激に換言すると、表現者は他者全体から愚か者(堕天使)のように思われるだろうが、だからといって表現者が他者全体を模範者(天使)だと考えることはないといった状態である。こうした判断の前提を探れば、他者全体は自己の理想を歴史的に純化してきたことで、共同体の上部に良き観念(としての天使)を発生させ、その天使に抵抗した経験さえあるものの、挫折した負い目に抑えつけられ、善の観念を外化した事実に気づかないまま、むしろ天使に似た表現者個人を嘲笑せずにはいられない、といった情景がみえてくる。ここにおいて表現者の耳には、『聖書』中の次のパウロの言葉が切実に響くのではないか。
「たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(『コリント人への手紙』第二第一二章)。
ここに描かれている内容はとても難解なので、読みの鍵を知っていたとしても、理解ができたという自信は起こらない。にもかかわらず、その行為はどんな宗教においても悪のニュアンスに近いだろうが、ひとつの解釈を述べたい誘惑にかられる。譬え話でささやくと、キリスト思想からは迫害者とみられたサウロ(パウロ)がキリスト教徒になり、徹底した布教に専念するなか、パウロとしての自覚を得て、精神的な自己滅却および肉体的な忍従によって復活する(天使に似る)際の内面的な経緯が記されている、と感じる。ここでの「私が弱いときにこそ、私は強い」との発見は、謙虚さという勇気ある意志を通して、主の力が完全にあらわれる現象を告げる一方、「肉体に一つのとげを与えられ」るとは、人を蔑む心があるかどうかを試されているのだろう。現実的には、契約を媒介とした法の利用を示唆するのかもしれない。例えばサタンと呼ばれる存在は、もっとも洗練されたスタイルで登場し、ソフトな語り口で困っている者に契約を求める。あたかもヨブを試すことを神にもちかけ、神が何の返答もなく黙認したときのように、相手から明確な応えがなくても、やがてサタンは契約内容をゴージャスに達成し、その見返りには、サタンそのものである法への服従をアルチメータムにつきつけるだろう。そのため一種の天使であるパウロが、その法の権威を使用することは、堕天使になることを意味すると考えられる。
だが、その瞬間、浮浪者のような無頓着な存在(キリスト)に出会う者は幸いである。なぜならそれは、ひとつの法の外部を意味すると同時に、生命の輝きを超越したものへの気づきでもあるからだ。その浮浪者は、他者一般の慣習とは異なる、かつての上部観念に基づいた慣習を背負っており、いわゆる官僚制度下における慣習に不満をもつ人々が、独立性と平等性を尊重する過去の倫理に、超越的なものを見出すきっかけを与える。先ほどの能面の譬えでいえば、能そのものを知ることが、これにあたるだろう。そして、超越的なものという「他者になり得るもの」との出会いを受け入れることで、心そのものの「豊かさ」を知るという可能性が、ここに開かれる。いわば豊かさという余裕により、個の心という垣根も除かれ、内部とされるものや外部とされるものを自在に感受することができるようになるのではないか。また、「生命の輝きと似たもの」とやや違うと感じられる理由は、生命の輝きを超越したものを感じているからであり、もはや個の心だけの問題ではなく、持続される良き魂の次元に向かっているためだといえるだろう。
引用したのは、吉岡実の詩集『夏の宴』(一九七九)の冒頭作品「楽園」だ。付記すると、末尾の「謎」には「エニグマ」とルビがつけられている。それにしても、この詩は吉岡作品のなかでは珍しく、詩論にも似た文意を辿ることができるだろう。もともと氏は、人間への愛と不信に基づいて世界観を形成してきた面もあり、エロティックかつグロテスクさにおいて詩的な特徴をあらわしているが、詩歌とのかかわりをぎりぎりまで深めたとき、何らかの反動として、強い論理性が表現の前面に突出してきたのかもしれない。けれども、ここにおいても詩人は、その成り行きを正視するとともに、人間臭い論理性に抵抗するかのような謎を、作品に組み込もうとしたと思われる。
謎というあり方には、それにふさわしい性質があって、アランは野の神々に触れながら次のようなことを述べている。…野の平和のもとにおいても、暴力はいたるところにある。動物は予測しがたい存在だから、恐れられる。いたるところで動物が神々となり、ときに人間とまじりあって、スフィンクスやセイレーンとなった。動物を表現するのに思いつきはきかない。それゆえに彫刻家たちは、動物の形態の周囲をめぐるだけで、内部に入り込むことがなかった。スフィンクスはその無言の謎の、その非情な拒絶の表象である。
「周囲をめぐるだけで、内部に入り込むことがなかった」とは、吉岡氏の作詩法にぴったりの形容だ。そして氏の作品のなかに、スフィンクスのような「非情な拒絶の表象」をみつけだすことは容易い。しかしそれらは、無言の謎ではなかった気がする。むしろ、今回の「楽園」で具体的な詩句になっているように、「川のながれにまかせて/夢の波に乗る/謎/沖は在る」の状態だったのではないか。詩人が「沖」を信じていることを感じさせていた点において、有言に近い謎だったと考えられる。逆に捉えると、他者の内部に立ち入らない決心をしていたことで、自己の内部に厳しく留まるスタンスが取られ、それが布石となり、「私はそれを引用する/他人の言葉でも引用されたものは/すでに黄金化す」という逆転的な方法への展開が可能になったのかもしれない。つまり、氏が、他人の言葉の引用を宣言する際には、パウロのような「私が弱いときにこそ、私は強い」という意識に達していたはずだ。同時に、「引用されたものは/すでに黄金化す」と断言される理由は、引用された言葉自体が詩そのものをあらわすと信じられていたからだろう。
「『植物の全体は溶ける/その恩寵の温床から/花々は生まれる』」、この一節の力強さは、これまでの考察から簡単に導けると思う。植物の全体という、人の目で眺めれば強さと弱さの混沌としたものが、溶けているとわかる者には、そこに恩寵の訪れもみえ、恩寵の温床に生まれる花々こそ、植物の真実そのものであることが理解できるのだ。
そこで次に、「いずれにせよ/『人間の全体は溶ける』/かかる時点で地の上に何が遺るか/水の上に何が浮ぶか/見れば見るほど微少なる/『熱い灰の一盛りと/火箸』/それは永遠に運搬できぬしろもの」として、人間の全体が溶けるとき、どんな恩寵があり、人にとってのどんな真実があらわれるのかと問うているらしい。地の上に何が遺り、水の上に何が浮ぶのか。あわせて、「熱い灰の一盛りと/火箸」には、失われるであろう小さな文化への哀惜のまなざしがある。だが、この感覚こそ、「永遠に運搬できぬしろもの」であり、「まだパン粉を捏ねる人」の実在、すなわち「人そのもの」への憧憬へと昇華され、その愛の行方を「謎」として浮き彫りにするのではないか。「沖は在る」とは「心の豊かさ」の造形化なのだろう。妄想ついでに述べると、天使は神(の言葉)を受け入れられるが、堕天使には不可能ゆえにいつか敗れる、との寓話を背後に読んでみたい。
竹内敏喜(たけうち・としき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)