今、詩歌は葛藤する 13
〜『足利』、日本語にふさわしい妥協のかたち〜
竹内敏喜
現在の職場で働くようになってから一五年が過ぎたが、その間にインタビューや取材、寄稿などを通してかかわった多くの方々のなかで、とりわけ印象に残っている人物が二人いる。一人は労務管理に長く携わった兵頭傳氏(二〇〇二年当時・大島造船所相談役)、もう一人は労働運動で今も現役の二宮誠氏(二〇〇五年当時・UIゼンセン同盟人材サービスゼネラルユニオン会長)だ。今回は兵頭氏の言葉をいくつか紹介したい。兵頭氏は一九二四年生まれで、取材時は七七歳。大学卒業後の一九四九年、当時の四国機械工業に入社して以来、人事労務関係を担当され、その後、住友重機械工業の役員などを経て、大島造船所の会長として一〇年近く在任し、一九九七年から相談役となる。また、一九七八年から東京都地方労働委員会の使用者委員を二三年間にわたって務められた。さっそく、その著書『労務屋春秋』(一九八四年)から、ご本人の発言を引用する。
まず、一九八四年頃の労使関係については、「労使は本質的には対立関係だけれども、これまでの組合指導者がイデオロギーという側面からの対立を求めて、権力闘争にいった時代から、そうではなくて、経済的な利害対立をどう克服し調和していくのか、という経済的なヴュー・ポイントに立った対立の時代へと変わってきた」と述べている。価値観の変化という点では、文学などの表現分野でも平行して起こった出来事だろう。その延長として、表現者のイデオロギーの先鋭さより経済的収入の多寡によって、社会的ステータスが決まる傾向が強まった。あわせて書き手と読み手の双方で、効率性や利便性を追求する姿勢が広がり、作品もイミテーション風に洗練されるのが一般的になったと思われる。
話を戻すが、労使が一つの社会を構成しているかぎり、対立を克服して調和にもっていかなければならない。その際にも氏は、「対立を克服することについて労使が協力をしていくということをもって、協力関係というのであって、対立点を解消したゆくてに協力関係があるのではない」との見解を示す。これは、人間関係をいかに維持するかということ以上に、個々の人をいかに成長させるかとの視点に立った発言だろう。そのうえで労務担当者として次のように提言する。「妥協するときには、経営側は常に自分の筋は通す。だから五一%は会社の主張を通し、しかし四九%は組合の主張に譲る。それから組合の方も、五一%は組合の主張を通して、四九%は会社に譲歩するくらいならおさまる。つまり、お互いが五一%は自分が守り切った、四九%は相手に譲歩したという意識を持ち合えるような妥協点を捜さなければならない。実際には四九と五一で一〇〇になるんだけれども、意識としては五一と五一だから一〇二になってしまう。これが、対等ということの具体的なあらわれではないか」。経験から得た卓見は、みごとに理性的な表現を見出している。
また、「徹夜交渉というものも、非常に重要な要素を持ってくるときがあるんですね。本当は、あまりない方がいいんだけれども。もうお互いが肉体的・精神的に最善を尽くし終えた上でつくり上げた妥協点に到達したときに、労使がお互いに喜び合える」のように、徹底することを通して得られる生きる喜びを、感情的に告白した場面もある。ちなみに、労働者二七〇名の怒号・罵声に取り巻かれ、会社代表二人と共に、夕刻から翌朝未明まで一〇日連続の解雇交渉をふりかえったエピソードでは、一〇日目の協定調印のときに解雇者からもねぎらいの声がかかり、もの悲しさだけが残ったと記されている。
交渉経験が豊富であろうとも、理論的説得力と情感的説得力を兼備することは至難の業だ。本人の悔悟の表現を挙げれば、「理屈に走って相手を不快にする、相手の弱点を攻めたててその心を閉ざさせてしまう、心の苛立ちを顔に出す、短気を起こして結論だけを押しつける、語彙の不足や表現の拙劣さから相手の心を失う」等、労使の対立のなかで可能なかぎり早く解決しなければならないときの心得だと受けとめると、まことに重い言葉である。そして本物の詩歌とは、こうした心と共にあるはずだと考えずにはいられない。
挙げたのは石原吉郎の詩集『足利』(一九七七)の冒頭作品で、タイトルは「足利」である。この表現の佇まいを前にすると、清楚だと形容したくもなるが、作者の生い立ちを少しでも知っていたなら、鋭利な面ばかりが感じられるかもしれない。そのため、書くべきか書かざるべきかと迷ったものの、数点だけ作者の経験について記すことにする。まず、第二次大戦後に八年ほどシベリア抑留となり強制労働に従事したこと、その後に帰国できたが親族の排他的な無理解に絶望したこと、くわえて戦中戦後を回想する散文を書き続け、その渦中で生死に関する独自な思想に達したこと。詩歌に関しては、「<みずからに禁じた一行>とは、告発の一行である。その一行を切りおとすことによって、私は詩の一行を獲得した。その一行を切りおとすことによって、私の詩はつねに断定に終ることになった」との自覚を、「一九六三年以後のノートから」に読むことができる。
さて、「足利」といえば、栃木県下の地名である以上に、室町時代をつくり上げた一族のイメージが強い。すると、この「里」には栄枯盛衰の大きな歴史の影が重なってくるが、そこに今、「いちまいの傘」が「空」をわたったとされる。傘とは、雨や直射日光などから身を守る道具であり、外部との隔たりを生むという機能において、疑似的に世界の中心に主体を置くものとも考えられよう。一方で、閉じられたなら用をなさないものだ。その選択において傘は開かれ、空を過ぎていく。けれども、「渡るべくもなく空の紺青を渡り」との一節からは、とりわけ「紺青」には海を越えて来たような印象が伝わってくるだけでなく、その響きにも「今生」という断念の意志が見え隠れする。ここには作者の複雑な気持ちが強く込められているようだ。そうした大きな時空を背負った、作者の分身ともみえる傘が、「会釈のような影をまるく地へおと」すのだが、この会釈に晴れやかさはなく、むしろ別れの儀式として為されているらしい。それに対し「ひとびと」は、「かたみに足をとどめ 大路の土がそのひとところだけ まるく濡れて行くさまを ひっそりとながめつづけた」と応えており、語り手にとって大切な儀式のなか、こうした「ひとびと」こそ理想的な人物像だと受けとめられている。心理的にたどると、帰国後の親族との葛藤を、作品のなかで清算しようとする詩だと捉えることも可能だ。それは作者にとって、本音の涙を落とせる場所を探す行為だったのかもしれない。足利の里がそうした場所だとしたら、ひとまず日本の中世文化の截然さに惹かれる作者像が想像されてくる。
次に作品「牢」を引用する。
ここにある記述だけでは、「錠」や「人」が牢のなかにあるのか、それとも牢を守るものとしてあるのか、決定することはできない。仮に、前者なら抽象的な牢の絶対性が前面に感じられ、後者なら具体的な風景として罪人の刑罰の重さの違いなどがみえてくる。もしかすると、そのように人間社会の実情に即して考えるべきではなく、「錠」や「人」を牢と一体化したものとして、総体的に捉えた方が良いのかもしれない。そこで、三つの牢の違いをあえて観念的に指摘するなら、「はじめの牢」には独裁的な法が備わり、「つぎの牢」には不完全な判断力が備わり、「さいごの牢」には自由が備わっているといえるだろう。もちろん、もっとも重要なのは最後の牢の性質であり、「風と空とが/自由に吹きぬけた」ことに対する、作者の放心にも似た状態について考察を深めなくてはならない。例えば、ここにかつてあったものは失われて久しいと空想した場合、その消失後の風景への語り手の共感に、ほとんど悲哀の情がまざっておらず、どちらかといえば「風と空」に対する好意的なまなざしだけがあることに気づく。それは翻ると、おのれへの視線ともなり、自分の死後の光景を眺めさせているようだ。そのとき選ばれている語が「自由」なのであって、ここに作者の確固たる思想を読むべきだろう。ここまでくると、三つの牢とは時間的な経過をあらわしているようにも思われる。作者にとって生きるとは、牢のなかにいることであり、はじめに錠に捕らわれ、次に人に捕らわれ、ついには人も錠も格子もなくなり、風と空とが自由に吹きぬけると見定めたのだろうか。末尾の「吹きぬけた」の一行には、書き手の憧憬さえ感じられる。
三番目に作品「黒門町」を引く。
最初に場所が限定されることで、「黒門町」を特殊化している。おそらく実際の「町」の様子よりも、「門」であること、さらには「黒」い門であることで、掟の厳しさのようなものを暗示させていると思われる。ここで起こる「砂塵」とは、一種の秩序の乱れを意味するようだ。そのとき語り手は「黒門町に砂塵が立つさまを/いかにもといいたげに」、既知のものとして「ふり返って」いるが、それに対して「砂塵」も、「いかにも/といいたげにして/舞いもどった」とされる。これは同類による特別な挨拶をあらわしているらしく、理性的な態度が貫かれている。しかしながら、どうして「いいたげに」ならなければいけないのか、また、挨拶の対象は砂塵を起こした存在ではなく、なぜ砂塵そのものとなるのか。極論すれば、「黒門町」のなかでの出来事だからである。常識的に考えると、砂塵を起こしたのは風であり、砂塵を舞いもどしたのも風であろう。けれども作者は、この作品では風を問題としておらず、風よりも黒門町の力の影響を問題にしている。風については、詩集『禮節』(一九七四)の作品「姿」に、「風は最初の意志だと わたしは思いつづけた。意志はいつでも はじめの姿にかかわるのだと。もののながれにかかわらぬと。」との一節があり、こうした超越的な姿勢に比べて、より社会習慣に近づいた位置で、「黒門町」は仕上げられている。そのような場所で生きるためには、自己の感情もできるだけ制御しなければならないはずだ。そこで人は、ものとの対話をはじめ、砂塵には砂塵の立場があることを学ぶ。その積み重ねのなかで、互いに「いいたげ」にすることは、自己にとっても大切な支えとなるのだろう。これは禮節の深まる段階だといえる。
最後に作品「うつくしい日に」を挙げる。
ここでは、作品「黒門町」とは見方を変え、掟について言及しているようだ。「ある日のうつくしさをそのままに/ちがう入口を通るなら/それが礼節ということだ」に端的にあらわれているが、先ほどの「いいたげ」な態度による禮節の深まる段階は消されている。むしろ孤独を孤独として向き合える平常心をもって、「ちがう入口を通る」ことの必然性を表明していると思われる。そして「うつくしいということへの/かくし手の外側へ」のように、美の理解から派生する、外部からの美の近づきを肯定することで、「その外側から触れて行く/巨きなものの/その巨きさ」が認められ、「美しいと呼ばなければ/いけないのだ」という行為を選択している。こうした「巨きさ」という限定も、語り手にとっては断念を意味するのだろうが、だれもに見出せるものではないという点において、彼自身が積極的にかかわらなくてはいけない対象となっている。さもなければ気づかれずに消えていくしかない。これが「うつくしさ」の正体であり、掟の一つのあり方であろう。
以上、任意に四篇の詩を解釈してみたが、試みのなかで、ある背景がみえてきたことには驚いた。それは理想としてのやさしさである。石原吉郎の詩や散文には、大学生のときに深く心酔した結果、卒業してからこれまで、ほとんど手に触れることができなくなっていた。この度、久しぶりに読み返してみて、当時は自分の問題を彼の作品にぶつけていたことが切々とわかると同時に、彼の作品の奥行きには、まだまだ味わいがありそうだと感じられた。いくつかの石原吉郎論も再読してみたが、そのなかで引用されていた大岡信の言葉に大変感心した。要点をまとめると、日本的抒情があるのではなく、日本語の抒情があるのではないか、との問いかけである。日本語が日本人の情感をつくったと想定してこそ、この国の詩歌はみえてくるのだろうか。思えば、冒頭に記した兵頭氏の悔悟の表現は、人と人とのかかわりのなかで呼吸している日本語の、上質な抒情の本質をいい当てている。成熟期を迎えた石原氏の作品もしかりだろう。その意味で、とりわけ『足利』時代の作品は、希有な闘争の末の、日本語にふさわしい妥協のかたちだと考えてみたい。
竹内敏喜(たけうち・としき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)