今、詩歌は葛藤する 11
〜『鮎川信夫全詩集’45〜’67』、間違いをしたくなるとは〜
竹内敏喜
子供が大きくなってきたこともあり、家を購入するなら、どんなところに住みたいかと空想するようになった。これまでの部屋選びの経験をふりかえると、橿原市に四年ほどいたときは、家賃の安い部屋を探し、主要な道路に面したワンルームマンションだったため、夜中に走るトラックの騒音などに閉口した。首都圏に転居する際には、閑静で便利だろうと予想して目白のアパートを選んだが、大家が破産して土地を売ったため、三年ほどで転居せざるを得なくなった。そこで、そこから歩いて一〇分ほどの西池袋の住宅街に隠れ家的な部屋をみつけた。結婚して蓮田市に移ると、妻の勤務先の宿舎の四階に入った。元結核病棟の敷地内だけあって、周辺には木々が鬱蒼と茂っており、満開の桜並木を見下ろすこともできた。現在は妻の転職により、蓮田市の別のアパートにいる。畑の真ん中にぽつんとある建物で、春の砂嵐はひどいが、開放感のある明るさが気に入っている。
このように辿りながら、静かな明るいところに住みたいと考えていた。ところが最近になって、遺跡の近くがいいと思うようになっている。神社仏閣を訪ねることに小さい頃から親愛の感覚を持っていたが、いつしか遺跡の方により魅力を感じるようになった。とはいえ、それをなぜかと問うまでには、なかなか至らなかったのだろう。今にして記憶を紐解けば、飛鳥で、だれも来ない墳墓のなかの空間にじっと座りこみ、まったくの闇をみつめていると、その闇がしだいに大きな岩の輪郭を見せはじめ、公園にでもいる気分になったことがある。心の通じる相手を身近に感じるような体験だったが、そのとき呼吸されていたものが、ようやく芽吹きはじめたと思われないこともない。いわば死者たちを、古人として敬愛の念をもって向き合える余裕ができたのだろうか。逆に捉えれば、親友と近所づきあいができる幸運が訪れるとは、期待しなくなったのかもしれない。
また、関東の田畑の多い平地の借家で育つことになったわが子は、京の盆地の山の辺の自家で育った父親とは、ふるさとへの感覚も違っているだろう。見回しても山のない景色を前にして、いまだに頼りなく思われて馴染めないけれど、雲なき夕空に蜻蛉のシルエットには澄みきった味わいを知った。だが、その風景は、自分には現代的なものにみえてしかたない。一方、盆地には識者が述べるように、中国古来からの土地の見立てにふさわしいものがあるらしく、母性に抱擁されるのにも似た安らぎや、外部へ向かう際の多様な風光の楽しみがある。そうした盆地に築かれた奈良や京の都のあちこちにこそ、蜻蛉が詩歌で描かれるにぴったりな風景があると感じるのも事実だ。それは個人的な、古人への敬愛の念のあらわれでしかないと承知しており、だからこそ京都を離れる決心をしなければならないと、学生時代から自覚していた。
正確な引用ではないが、折口信夫の詩歌への見識には、歌を通して当時の人々の生活を読み取ることが大切だという主張があり、万葉時代の歌に対しても、祝福、祈り、鎮魂という解釈の方向性を示している。これらを認めることは、現代における一種の希望を設定することに通じるだろう。もちろん肯定性であれ否定性であれ、共同体の内部の人々に安定した精神がなければ成り立たない観念であり、重ねていえば、その安定性を取り戻さない限り、詩のあるべき姿はあらわれないとも想定できる。その意味では、例えば後鳥羽上皇が俊成や西行の作品に対して述べた、「これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる」としか評せない感覚なども、社会から消失して久しいと感じないこともない。
あわせて、いささか飛躍すると、カントの語った内容をまっすぐに咀嚼したなら、平和とは観念的なものなのだから、人間すべてがその平和の観念を受け入れた生き方をすれば、世界平和を実現できるということになる。けれども現代人は、充分に観念的な存在になったはずなのに、分業による過剰な格差などで不自然にグローバル化を進め、その観念性は他者を犠牲にした上で自己の平和を実現しようとするものにしかなっていない。裏を返せば、ローカルな問題でしかないものの積み重ねに圧倒され、何も変わらないと信じ込まされているが、何か一つ崩れるだけで世界の見え方が変化するほど、不安定な観念しか持ち合わせていないのだろう。まさにバブル崩壊や九・一一の事件のときのように。そんな現代人に、個々を超えるどのような救いがあるのか。この問いと、詩歌における希望との関係を明示することも、詩人が現代に生きる限り、背負わなければならないと考えたい。
こうしたスタンスにあれば、特に二〇〇〇年以降に日本で発行された個人の催事的な詩集に対して、あまり食指が動かないのは当然だろう。ならば、ものごとの関係をつかみ直すため、読み継がれてきた古典作品のあり様に自分の力で向き合ったり、あるいは漢字という文化遺産的なあり方について改めて問いかけるなど、日本語を主体としつつ考察することから再出発しようか。少なくとも、「正しさ」といわれるものの歴史的な展開が期待されるという点で、これらは思想の表明というより、詩の行為に近い気がする。
しかしそこからは、人間にとってもっと大切な何かが欠落する恐れがないとはいえない。つまり、表現されなかった者の生活であり、一面においては、鮎川信夫が詩に求めた社会における「正確さ」のようなものである。ここで興味深いことを付け加えると、晩年の彼は間違いをしたくなったと述べている。この「間違い」の感覚を学ぶことは、彼のこだわった「正確さ」の枠組みを知るきっかけになるのではないか。そのためにも鮎川信夫の詩作品を再び、何度でも読まなければならないと思う。とりわけ「M」を見出した後の、他者に語りかけるような作品を。なお、以下の「M」にまつわる文章は、数年前に『現代詩手帖』に掲載した拙文に加筆したものであることをことわっておく。
周知のように、鮎川の詩に登場するMのモデルは森川義信である。鮎川が、はじめて彼と会うのは昭和一二年の秋(森川一九歳、鮎川一七歳)で、新宿を中心に仲間が集まるなか、彼は最も身近な友人となる。森川は、「地方(香川県)の旧家である医師の家の七人兄妹の四男で、他のきょうだいはみな医学を修めた」(『失われた街』)という立場にあった。やがて彼は召集され、数えの二五歳で戦地に亡くなるが、鮎川宛の遺言として「一貫して変らぬ好誼を感謝します。この気持は死後となっても変らないだろうと思ひます」を残し、この言葉に対して鮎川は「その礼式に酬いる自分の声はどこにあるのか、と思わないではいられない」と述べている。ここに戦後詩の原点をみる研究者は多い。
鮎川は『森川義信詩集』について、三番目の国文社版を出したときに記憶にある限りの詩を全部集め得たと考えたが、その後、森川が昭和一二年の年末から年始にかけて「悒鬱な花」の総題でまとめた七篇が、六一歳になった鮎川のもとに届く。これをきっかけに森川を回想する『失われた街』が執筆され、この著書は「私は最後の年に大学をしくじることで、結果として救われることになったが、森川は、この年に退学したために、ビルマのミートキーナで戦病死することになってしまったように思えて仕方がない」のように、出来事の偶然性に運命を見定めようとする書き手の姿を、読者に深く印象づけた。
次にMについてだが、鮎川の詩「死んだ男」「アメリカ」等において、語り手の呼びかける対象としてあらわれる。これは、森川のイニシャルを用いながら、同時代の死者への感情を表現すると同時に、語り手が自問せざるを得ない気持ちを示しているようだ。『戦中手記』には次の一節がある。「芸術家はまづ死人でなければならないといふことに従って生きてゐた。『正確』—それが僕の嗜好に適する唯一のものであった」。この観点から「死んだ男」を再読すると、遺言執行人とは、事後という現実を自覚することで生まれる感覚であり、まずは、その自己認識の出現の意味に意識を集中する語り手がみえてくる。それは、「死にそこなってみれば」との吐露とともにMとの交流を振り返るのだが、そこで描かれるのは鮎川の理解するMの姿であり、生きた幻影であろう。つづけて、この生命感への視線を切断するかのように、埋葬の様子が劇的に想像され、語り手の諦観のなか、作品はなにものかを静かに非難する。
ここで確認すべき点は、作品中の魂のレベルで生と死の状態が入れ替わり、語り手の側が死んだ男の立場になって、「太陽も海も信ずるに足りない」との一行を成立させていることである。これは、なにものかに対する非難の矛先を、「死人」としての自己の運命に向けることで、正確さの無償の担保になろうとした結果なのだろうか。仮に、これを遺言として読み手が受け取った場合、永遠などに騙されず生死に対して正確であれ、という一点に通じざるを得ない。そうすると、遺言執行人とは必ずしも個人の役割のことではなく、「芸術家は死人」であることの普遍的な実践として、個人を通して持続させるべき魂の状態を指すといえる。実際、その後の鮎川は遺言執行人としての生き方の意味をふまえ、無償だからこそ詩の価値を認めたと思われる。
戦後数年の鮎川には、詩の方法として「仮構されたヴィジョン」と「経験領域から受取った断片的な言葉」の二つの立脚点があった。それらを「秩序の下に再組織することで生の中心を暗示」すること、これが理想であったようだ。やがて、まなざしを成熟させ、小さな生命が明瞭になる。こじつけではあるが、Mは鮎川の心のなかで「小さいマリ」となり、再生させられたと考えてみたい(マリは鮎川が一時共に暮らした佐藤木実さんの娘がモデル)。「ぼくが知っているのは おまえが生れる前のことだ/おまえが生れてからのことは/なんでもおまえの方がよく知っている」、ここに、Mの傷口の痛みを癒すような、人間社会における「正確」という思想が実現されているのではないか。いい換えると、鮎川を支えた正確さは、生命のあどけなさの発露を尊重するときに、もっとも率直に表明されたのかもしれない。それは、無償性との類似だけが理由ではないはずだ。
長い作品のため、不本意だが改行部分を詰めて、「小さいマリの歌」を挙げる。
今回は、引用した作品に私的な解釈を加えない。できるならば、何度でも読み返していただきたいからだ。そのなかで、鮎川の意識について耳を澄ましてほしい。「ずっと空に近い野原の/高い梢で一緒に歌っている人たち」のなかには、きっと「M」もいることだろう。これは必ずしも空想ではない。ましてや夢まぼろしではないと考えたい。その根拠になるかわからないが、自作の創作経験について、一九六九年刊行の著作で述べた彼の言葉を次に引く。「どんな状態で詩を書きはじめるにせよ、私は、私に達するように書く。しかし、達せられた『私』は、むろん、現実の私ではない。二つの私の像が重なるには、多少意識の時間が必要である。(略)二つの私の像が重ならなければ、たとえ私が書いたものだとしても、私にとっては私の作品とはいえないのである。このような考え方は、最後の段階に至って、作品の形成過程を、その強度はいちおう別として、ある倫理的な意識の管制下におくことを意味しているかもしれない」。 さて、晩年の鮎川は詩を一〇年やめると発言し、吉本隆明との対談のなかでは、間違いをしたくなったと語っている。年齢としては六五歳のころだ。「最近一つだけ自分で変わったなと思うことに、間違いってものをやりたくなったってことはありますね。おかしな言い方だけど、とにかくぼく、間違いってことはやってないんですよ。(略)だけどそれには一つの秘密があって、ぼく自身が一種の受動態なんですよ。だから間違うかもしれないってとこには足を出さない。だけどそんなのちっとも感心したことじゃないということに近頃気が付いたんだよ」。ここで思い出すのは、「仏界入り易く、魔界入り難し」という一節だ。通常は、帰依者に教えるのは容易く、悪人に教えるのは困難であると理解されるようだが、一歩進めて、人徳ある者なら常識はずれの行動も必然性において人々に許容される、との意味で受けとめてみたい。これが法となれば、個別な殺人は罪だが戦争では英雄として称賛される、のようにも換言できよう。しかし法とならないものだからこそ、人々は魔界と見定めたのではないか。鮎川はその運命を得て、正確さの感覚を拡張したと考えられる。そして詩との隔たりを保ったまま、帰ってくる時間を与えられなかった。
竹内敏喜(たけうち・としき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)