今、詩歌は葛藤する 8
〜『アンユナイテッド・ネイションズ』、屹立させるべきそれがあること〜
竹内敏喜
乱暴ではあるが、瀬尾育生の『アンユナイテッド・ネイションズ』(二〇〇六)から、いくつかの詩句を断片的に引用した。詩集全体のほんの一部であるとはいえ、ここに任意のキーワードをみつけられたなら、作者によるきめ細かな考察の実質へと、しだいに分け入ることができるだろう。キーワードとして、例えば「隠されたもの」を取り上げると、その延長で「公的」と「プライヴェート」の対比を捉えることもできる。そのうえで「意識」と「存在」の背後にあるものの差異、さらには「複数」と「別々であるのに一つである、あるということ」の社会的意味の違いへと辿れば、「言葉」で描かれたものの向こう側から、未知の圧迫感が伝わってくるにちがいない。
こうした作業には、概念を人格化するような一種の成長物語との類似をみることもできるが、それは必ずしも正しい理解ではない。なぜなら歴史を物語化して、既存の世界観のなかに整理する意識(「完璧な朗読会」など)こそが、ここでは批判されているからだ。むしろ、「みずから粉末になって私たちに挨拶」するものに気づいた作者による、超越性の根拠への問いかけがあると受け取るべきかもしれない。二〇一一年時の論考で瀬尾氏は、「「宗教性」が克服し廃棄されるためには、「超越性」の否定ではなく、むしろ「超越性」を一人の人間の構造として徹底して屹立させることが必要である」と語っている。仮にこの指摘を、氏の詩作方法の秘密だと読みかえると、作品の完成を見分ける際の、大事な要素のひとつは、屹立させるべき何かがあるかどうか、ということになるのではないか。
いずれにせよ、詩の解釈のためには、本来なら作品全体を対象としなければ、作者の意図と異なる結果になるのは明らかだが、その内容の示唆するものがあまりに巨大なこともあり、ひとまず筆者の理解の範囲内でのささやかな紹介から、瀬尾氏の詩に触れていただきたい。氏の言葉には、底なしの現実や、詩の向こう側を見定めようとする、果敢な主張がある。以下の拙文は、その果敢さの内実を学ぼうと試みたスケッチである。
その詩は、どちらかといえば不幸を背負った小さな声からはじめられる。そこでの声は、作品「大使たち」(後に部分引用する)にもみられるように、「帰属」という語で表現されるものと、強い関係をもって描かれている。参考までに、二〇〇三年時の氏の発言を挙げると、「公的であるということは、読者に対する関係としては、徹底的に戦略的であるということじゃないでしょうか。その反対は何かに<帰属する>ということで、たとえば詩の言葉が詩史に帰属することで成り立っているというのが、<詩人>がプライヴェートであることの意味なんだと思います」のように、「帰属」は「プライヴェート」であることとセットにして語られている。ここにまず、詩人の世界観の一端がつかめそうだ。
ところで、『アンユナイテッド・ネイションズ』を読み進めると、その小さな声が、価値観において変化させられていくのがわかる。詩集の前半(「大使たち」、「エマオスにある」など)では、他者に抑圧された小さな声に目が向けられているが、詩集の半ば(拙文冒頭の引用作品)では、世界という全体を支える秩序の秘密を探りつつ、そこに「言葉」をみつけ、言葉と向き合う存在の複数性に対し、その後ろの「別であること」を考察している。こうしたことから、声を分析する次元の変わりゆく過程そのもの、例えば「意識」から「存在」への移行が、詩集構成の要になっていると捉えられないこともない。
このような着想が選択された要因については、詩集刊行時に行われたイベントでの瀬尾氏の発言から、いくつかのヒントをみつけられる。以下に、そのポイントを要約する(要約の文責は聞き手としての筆者にある)。①詩の時間とは永遠回帰的だが、一度もあらわになっていないものが、いろいろな場所に出ていたのが九〇年代だった。②湾岸戦争以降、世界が描けるようになった。それまでは何かにコミットして、その立場に寄りかからなければ世界を描けなかったが、詩の言葉に属するだけで世界を描けるようになった。③書くことは、死者を抱えてしまう行為であり、死後の時間を信じることへと構造的につながる。その意味で、詩が残るということは、必然的に歴史的なことである。
ポイント①に関しては、冒頭に引用した詩作品の断片を読んでいただくと、作者の感じただろう印象が伝わってくると思う。とりわけ決定的な詩句を挙げるなら、「私たちの詩は「表立って語られるべきでないこと」を「表に出す」ことに、公的な意味があるかのようにふるまう、解読不能な言語になった」という部分がある。これには、「日露戦争以降現在まで」のことと作者によって限定されているが、九〇年代になって、この光景がみえてきたという事実こそが重要なのだろう。換言すれば、言葉そのものが浮遊するようになった時期に対して、問題提起がなされているということかもしれない。
次にポイント②については、言葉そのものが浮遊するようになった社会では、どんな言葉も意味を限定されることがないため、「詩の言葉に属するだけで世界を描ける」と、現実への近づき方として逆説的な接触方法を述べる作者が感じられる。もしかすると「最後ニ到達サレルベキ唯一ノ正義──ソレハイクツモノ正義ガ「併存」スルトイウ正義ダ」との見極めも、そこから来ているのではないか。また、この正義の「併存」を個に当てはめれば、「存在」における「複数」性につながりそうだ。
最後にポイント③は、「だが道端で苛まれさげすまれ汚れて苦しむその「子供」のなかに「別々であるのに一つである、あるということ」があるのだ」という部分に呼応すると思われる。「死後の時間を信じる」とは、「子供」という無垢で受動的な立場を、「別々であるのに一つである、あるということ」であるものだと信じる態度であり、「明晰なものは合意と信憑の言語」だというあり方とは異なる。それは、存在における複数性も、いわば「現在」を通しての錯覚であったと認めることのようだ。同時に、時間の侵食に耐え得るものの位置を、結果的に意味するだろうが、何らかの人為的な「力」を要求するものではないという点に、希望が見出されているとも考えられる。
ところで、この詩集は、その帯文に「詩的表現と思想の散文をつらぬく直接性の言語で、「世界」を明るみに出す、二一の断章」と広告されるように、強靭な言葉が並んでいると印象されるかもしれない。瀬尾氏の文体の論理的側面は魅力的でもあるから、そこに目を奪われたなら、読み手は言語の「直接性」に酔って、個別的に幻想してしまうだろう。それは詩を楽しむ方法ではあるが、そのように一気に酔わずに、記された論理によって丁寧に醒めていくためには、自己を確かに保つ術が必要だ。あるいは、そうした自己を保つ術を知ることが、「アンユナイテッド」の肯定的な意味に通じるともいえるだろうか。
また、詩集では、ある視点において「世界」を探り出そうとしている。それは一面では、世界を「明るみに出す」ことだと比喩できそうだが、同時に「世界」があることで生まれる世界の背後の、異質な何かをさらに見据えている。そのとき、詩人の文体は、何かをさらけ出すことではなく、見据える状態についてこそ、「詩的表現」を費やしている気がする。具体的には次のように。
こうした見据える状態を、許容できる能力を詩の力だと考えて、その確固とした判断を求めようとすると、とても大きな出来事との対峙になるのは間違いないが、それが今回の詩集だといってみたい誘惑にもかられる。批評家としてなら、瀬尾氏はさまざまな見解を発表している。「言語とはほんらい、いまだ対象でないものが自らを開き、対象としてはじめて姿をあらわす場所のことである。詩とは、この場所を遠近法的な媒介に置くことなく、直接に実在化することである。近代の多くの言語論は、言語を「あらかじめ与えられた対象」として扱うことで、その出発点から根本的な欠陥を刻印されている」(『戦争詩論』)。この一文からでも、氏が比類なく狭い門を通って、詩と向き合ってきたのがわかるだろう。また、この発想を作品化すれば、次のような姿で現われるのではないか。
瀬尾育生の詩を読み解こうとすると、本人の発言を重ねることで、もっとも説得力のある解釈が導かれるのは事実だ。このことは、書き手が自作に意識的であることをそのまま意味するのではない。おそらく詩人として目指すであろう、「屹立させることが必要である」とは、それ以上の事態を生み出すことなのだ。言葉は、人と人がコミュニケーションするために作られたのではなく、人がものに向き合うことで現れ、さらには人と超越性が出会う場にもなり得るものである。あるべき現代の詩がここに存在すると、迷いなく感受したい。(付記・引用作品の 部分は原文では傍点であり、またルビはすべて省略した。)
竹内敏喜(たけうち・としき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)