今、詩歌は葛藤する 2
〜『世間知ラズ』、要約ではなく詩と呼ぶしかないもの〜
竹内敏喜
詩句とは、一度おぼえると、心の奥から必要なときに語りかけてくれるものだ。そうした自然な感覚を忘れてしまうとき、作品は一気に読まれ、忘却されていくという、読書体験ともいえない現象が起こってくる。その状態が慢性化すれば、単なるレトリックでしかない批評の言葉を前にして、むしろ、そのかっこよさに酔いたい誘惑を感じるとともに、その空虚さに気づけなくなるにちがいない。しかしながら、たとえ一行でも、読み手の心に刻まれたときにはじめて、詩歌のための本当の批評に通じる状態が用意されると、信じてみたい。
思い返せば大学生の頃は、朝食前の二〇分ほどを詩に向き合う時間と決めて、興味を持った詩人から順に、現代詩文庫を読破していったものだ。そこで奇跡的な出会いがあったのかどうかは忘れてしまったが、確かに数人の詩人についてより知りたいと思い、詩集や論集のほか、その詩人に言及した文章なども可能なかぎり集める努力をした。また、「現代詩手帖」などを通して、さまざまな詩人の作品や考え方に触れようともした。
いつしか詩人仲間が増え、毎月の作品合評を行なうようになると、その積み重ねの中で、他人の詩作品を読む感覚が成長するのもわかった。作者が目の前にいるとはいえ、できるだけ肩の力を抜いて想像力を開放させれば、作品から語り手のイメージが見えてくるのは不思議だ。また、作者がこだわる単語の内容の深まる様子、語り手における他者との距離感、作品全体であらわされる意識の方向性などは、読解のこつを知っていれば、だれにでも捉えられるだろう。さらに心を集中して見定めたなら、作品が、自らの彼方で自己肯定している姿が理解され、その位置においての、文学観、歴史観、同時代意識も伝わってくる。そのとき、語り手は作者以上に魅力的だ。こうした作業に、なにかしら文学らしさが匂ってくるとしても、この匂いの中にいることに自覚的である限り、自分の心を成長させられると感じていた。
やがて、ある程度の読書量を超えると、再読だからこそ、一種の真理に近づけると思われ出した。仮に区別をつければ、はじめて開く本には傷の無さに似た美の発見の喜びがあり、再読では回顧の情を含んだ認識において美の味わいが与えられる。あるいは、はじめて開く本には、自分こそがその道を最初に歩く者であるかのような孤心の快感があり、再読ではかつての若き自分を友として道を行くような共感の発見があると、いえるかもしれない。理想的に述べてみると、その人物が読書に熟練した者なら、常に再読者のまなざしで対象を的確に判断しつつ、はじめて出会うかのように情熱を高め、尽きない美の新鮮さを楽しむと、思い描くことも可能だろう。
ところで実際はどうか。例えば古い自作を読む場合、どんな気持ちになるだろう。
引用したのは、谷川俊太郎の詩集『世間知ラズ』(一九九三)におさめられている「夕焼け」という詩だ。長年にわたり詩を書いてきた者が、自分の詩をどのように読み返すか、という題材を取り上げ、これほどさらりと冷徹に描ききった作品は少ないと思う。この作品の内容に関しては、疑いもなく理解できるだろう。だからといって平凡な気持ちがたどられているのではない。念のため具体的にみると、作品前半では否定の気分で、自作の周辺をめぐっている。その着地点として「宙ぶらりん」という作者の立場を見出すが、ふいに「自分の詩に感動してることがある」といった強い価値観を出し、すぐさまそれに批判の目を向け、「厚顔無恥と言っていいほどに」と対象である詩を捉える。つづいて普遍的見方を確認するかのように、ソール・ベローという一人の権威の文学観を提出し、それを踏み台にして、詩の「目指す真理」は「連続した時間よりも瞬間に属している」と反論をささやく。こうした一連の心の動きの延長に、どんなに美しくても「その前で立ちつくすだけでは生きていけないのだから」と、「瞬間」に主眼をおいた過去の詩作の欠点をえぐり出し、「詩」と「生」と「美」の関係についての考えを反省しながら、その根深い葛藤の様子をまとめて詩は成立している。
だが、「自分の詩を読み返しながら思うことがある/こんなふうに書いちゃいけないと」といった吐露は、自作についてだけ述べられたのではないだろう。ここで問われている真の内容は、作者における過去と現在の詩意識の差ではなく、詩そのものが人の生に対し全面的にかかわってこなかったという、生活者としての気づきの問題だと思われる。それだけでなく、詩の本質を「連続した時間よりも瞬間に属している」と結論づけることは、人と詩の関係を限定することであり、人の生の理解においても、その価値観に沿って無意識に測ってきたと考えられなくもない。それは、人間が言葉に過剰に規定されることだ。作者は、その事実を指して「世間知らず」と自己認識したのだろう。そうした気持ちがこの詩集には持続しているが、そのきっかけは、詩集冒頭の作品「父の死」に描かれた経験だと想像される。肉親を失った悲しみがあふれたとき、詩人であること以上に、ただの人であることの大切さを感じたのではないか。そのうえで、自分が詩で表現してこなかった領域を、真に悟ったとも思われる。
そうすると、この詩集での挑戦として、瞬間に属していない詩が探られていると想定してみるのも悪くないだろう。その一例として、詩「マサカリ」を挙げてみる。
この作品でも、権威の一人であるワーズワースの詩観、「静寂の中で呼び起こされた情感に発するもの」という踏み台を使って、自分の頭に浮かんだ言葉は「想像力の単なる騒がしい小道具」にすぎないとの展開を行なっている。こうした他者の箴言の引用は、過去の文学の遺産を肯定し、継承させるためというよりは、現代におけるその有効性を疑うがゆえになされた行為だと思われる。それは、頭に浮かんだ「マサカリ」という語への冷ややかな視線とも共通するものだろう。「マサカリ」と自分との関係について、実際には触れた経験がなく、金太郎の持ち物だという印象や、辞書でその漢字表記を確認した事実を挙げることは、詩を構成する言葉が「上澄み」にすぎないとの証拠を示すものだ。こうした意識は、自己の創作行為を誠実性のないものとして批判することに通じるが、作品が仕上がった時点では、今の自分は過去の文学の遺産に属さないといった気分の方が、結果的に前面に出てくるのかもしれない。その気分を抽出しているものこそ、詩は瞬間だけをとどめるのではない、といった作者の新しい好奇心の強さだと考えられないだろうか。
そこであらためて作品全体を見渡すと、現代のテクノロジーを主体として、言葉の位置をみつめ直そうとしている語り手の姿に気づく。テクノロジーは、「通行人の目でこの世を眺めて」きた「私」に似ており、「スイッチを切ると」目の前の言葉を「一瞬にして消」してくれるものだ。けれども、それは何を意味するのか。この作品でも、「詩なんてアクを掬いとった人生の上澄みね」と、詩そのものが人の生に対し全面的にかかわっていない一例が引かれ、ついには、「ついでに詩も消え去ってくれぬものか」と語り手は言い捨てている。だがここに、「上澄み」以外の濃厚な部分への、作者の憧れを感じ取ることは間違いではないだろう。無論、詩人としての葛藤はなさそうだ。すると、テクノロジーが消すのは「上澄み」に過ぎず、作者は、現代のテクノロジーを利用しながら、それ自体を排除することで、居場所のなかった詩を救おうとしたとも考えられる。
ある意味で、テクノロジーとは正確に反復する能力だとしたら、人間にとっての瞬間の観念と異なる時間とのかかわり方をあらわすものだ。逆に、その異なる時間を見据えたとき、人間の瞬間の観念は、特殊性のニュアンスを帯びるだろう。そのとき、瞬間は内部に物語をはらむことができ、一種の無限性を獲得する。例えば、「離婚したばかりの女に寝床の中で言われたことがある」のように、その「女」からの言葉の、作者における一度限りの印象が作品に描かれ、その一節が読者の心の中で反芻されるとき、複雑なニュアンスを永遠にとどめることになる。それは何かを要約することではなく、詩と呼ぶしかないものだ。
ところで、谷川俊太郎という人物は、詩人としてあまりに有名である。そのため、ある時期以降、彼の詩を読まなくなった読者も少なくないと思われる。新作の存在を知りながら、読まないでいるときには、むしろ漠然とした作風のイメージが、確固として出来あがっていることだろう。もちろん、作品内容と正確に対応しているとは限らず、ときに作品と社会状況との関係だけについて、表層的に独断していることも多い。いずれにせよ、その作品に対して、読書の意欲を失わせているものは、実は再読者のまなざしであり、その人物の側の限界の現れともいえるのである。
竹内敏喜(たけうち・としき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)