今、詩歌は葛藤する 1
〜『パリの五月に』、その高揚と孤独と自由〜
竹内敏喜
このところ、自分から求めて詩集を読むことがなくなった。とりわけ現代詩といわれる言葉については、いただいた詩集や冊子を通して接するのみとなっている。読書そのものの習慣は変わっていないのだから、その原因を探ることは、いずれ必要だとも考えていた。
どうしてこうなったのか、と自己に問いかければ、社会学的な答えがいくつか見えてくる。ごく簡単に、結果の既視感、興味の変化、心身の衰えなどを挙げてみようか。それとも生活環境をふまえて、自由時間の減少、交友関係の閉塞、世捨の気分を導くことも可能かもしれない。いずれにせよ、あまり褒められない疲労感覚に陥っているようだ。
そうした現状を反省しつつ、逆に考えると、詩を読むときには力のみなぎりが必要条件だったとも回想される。ふりかえれば大学生の頃は、仲間と夢中で作品を競い合っていた。世界一の詩を書きたいだとか、歴史に残るものを仕上げたいだとか、集まったその居酒屋のかたすみが、地球の全体であるかのように陶酔して、それぞれの主張をぶつけ合っていた。このように記しながら、未だにその感覚にしがみついている自分に気づくとともに、かつての友が幻のように社会の波へ消えたことを、常識において理解し、寂しいと感じることもない。
ところで、当時、思いついた問いかけのなかに、今でも確かな答えをみつけたいと感じるものがひとつある。それは、詩はどこで読まれるのがふさわしいか、というものだ。はたして、これは取り組むべき疑問だろうか。その答えにおいて、民主的な一般化ができそうにないという点では、矛盾を抱えた問いとも捉えられる。けれども一方で、どういった限定がもっとも有効なのか、といった視点で考察する余裕もほしい。当然ながら、その道筋で論理的に引き寄せられる一種の差別もあらわれるが、この事実を正確に受けとめられる認識力はとても貴重だろう。なぜなら、倫理とは次元の異なる差別化という、詭弁ともいえる区分に対し、現代人はあまりに潔癖だと思われるからだ。この件にもいつか触れたい。
さて、どういった限定がもっとも有効か、という条件を選別するためには、まず、それぞれの個人が好ましい場所として選択した、その根拠を支える自由な判断力についての、解釈が必要になる。解釈によって示される内容は、個人が快さを感じる空間とその外部との関係の性質をあらわにすると同時に、結果的にその個人の成熟度を測る目安となっているはずだ。するとおかしなことに、自制心のある、成熟した人というイメージに重なる人物が、良いものとして浮かび上がるにちがいない。だが、この上位にあるイメージとはそもそも何なのか。こうしてイメージ=心象に対する根源的な疑いがあらわれる。
イメージというものの本質を見定めようとして、多くの経験から帰納したり、観念的に演繹したり、別の方法で展開するなどは、先人の成果を挙げるまでもなく、これまで充分に取り組まれてきただろう。ここでは、現象とそれを表す言葉との関係を認識する際、イメージという語の背後に控えている欠点のない像、いわば純粋な現象のニュアンスの存在について、心にとどめておきたい。なぜなら、そのニュアンスの存在に無自覚であるために、上位のイメージが乱用されるとも考えられるからだ。そのうえで乱暴ではあるが、「成熟した人」の意味するものをめぐってさらに考察をつづける。突きとめるべきことは、成熟とは人そのものが示す価値観なのか、人のおかれた環境が示す価値観なのか、という二つの問いの接点である。
試みに、「ここはどこ、わたしはだれ」との発想は、人間存在のあり方の真実を告げており、けっして「わたしはだれ、ここはどこ」とはならない事実に注目してみよう。ひとまず結論だけ述べれば、呆然自失していた人物が、自分のいる場所を確認することで、あらためて自己を演じるような行動を取るのは自然だということである。その意味するものは、「わたし」の内容を限定するのは「ここ」だということだ。
そうすると「ここ」が理想的であれば、「わたし」の理想像が求められるとの想定もできるが、これはいささか馬鹿げた論証になる。理想的な環境にとどまる人物を想像すれば、確かにその人は満たされることで自由を感じるだろうが、そこは天国にも似て一種の密室性を契約された空間であり、そうした変化に乏しい空間性が、植物ならともかく、刺激を好む健全な人物にとって快いとは、とても信じられないだろう。もしくは環境が理想的であるがゆえに、努力をしなくなる可能性も高く、これでは堕落である。いうまでもなく、「ここ」が理想的であるために、適度な変化が好まれるとみるのは常識にかなっていよう。
おそらく日常における時間感覚の根拠は、その人物の人生経験にあるといえるだろうが、忘れてならないのは、人生経験という現象の理解の背後に、いつしか純粋な像が育まれているということである。つまり、自分のいる場所の確認において、「ここ」はすでに「あれ」と二重になって受け止められているはずだ。この二重性において、人は「今」を甘受しているのではないか。ここまでくると、人生経験こそがその場所の価値を教えるといった、実に素朴な結論になる。
また、こうした観点を敷衍するなら、適度な変化とは、自分のペースで行う読書のなかでの、想像力に自然な重層化をふくらませる時間経過に似ているかもしれない。それはまさに、自己の願望をたどる人生経験そのものの模倣だろう。
一方、理想の時間という選択は人間には不可能なのだから、理想の場所の実現は、「今」を前提として探ってみるしかない。さて、どうすればいいか。例えば、人生経験がその人物に理想的な「今」を感じさせるときを、心に詩が成立した時間だと仮定すると、場所に対する二重性が満たされるところとは、「ここ」が純粋な詩想である「あれ」に照らされつつ、「ここ」で新しい詩が描かれるような場所ではないか。へたな比喩で述べれば、「ここは美しい、わたしの詩観は間違っていなかったのだ、今のわたしは詩人だ」の瞬間である。
そこで想起されるのは、清岡卓行の『パリの五月に』(一九九一)という詩集だ。集中の代表作「パリに眠る」を挙げる。
この詩集のあとがきで詩人は、初めてのパリ経験について、青春前期に熱く憧れた地を、日仏文化交流の仕事の関係で六〇代に入りながら思いがけなくも踏むことになったとし、ごく短い日程の旅行だったが心に深く刻みつけられたことは多く、東京に戻ってからの四年のあいだ、その記憶を詩にしようと試みずにはいられなかったと記している。
そうした詩作の背景を考慮しつつ、「パリに眠る」を読むと、自己の心をみつめるなかでパリとの親和を達成しようとする様子がわかる。詩集中の他の作品では、現地での出来事や過去についての知識を題材にしたり、訪れたパリの実際の風景をたどることでその土地に親しんでいく感覚も見られるが、それらはパリを対象とする体験の新鮮さを大切にした作品だといえる。その方法と比較すると、引用した作品は、土地と同化することで新鮮さの原点をあらためて永遠にとどめようとしているようだ。どの一行にも、作者が長くつき合ってきたモチーフが詰めこまれており、さらにクライマックスでは「作曲さなかの白熱が/まるでこちらの出来事のように」と創作現場の高揚感による目覚めへの希望が述べられている。ここにおいて詩人は、芸術愛好への自らの思いを存分に語れたと感じたのではないか。
だからこそまた、日常という時間感覚が人にある限り、その反動があらわれずには済まない。詩集で「パリに眠る」につづくのは「ひとりごと −モンスーリ公園で」という次の作品だ。
対象との親和を達成して、高揚とともに目覚めた後、どうしても「えがきたい」と欲すること、そして、その自己の一連の行為を眺め直したときに「ひとりごと」と見定めずにはいられないこと、この姿勢に、詩人の孤独な像を思わずにはいられない。あわせて末尾の「。」には、書くからには書き切るといった、ある種の覚悟が込められているのだろう。これが人間の「自由」の体験なのだ。そこに詩人の意志を見出し、創造の渦中の情熱を味わうことで、読者も、力を与えられ、自分のなかに「自由」の感覚のあふれを感じられたら、と思う。
ここで蛇足ながら、この稿での検討課題をもう一度記す。…人生経験がその人物に理想的な「今」を感じさせるときを、心に詩が成立した時間だと仮定すると、場所に対する二重性が満たされるところとは、「ここ」が純粋な詩想である「あれ」に照らされつつ、「ここ」で新しい詩が描かれるような場所ではないか… 確かに作品「パリに眠る」と「ひとりごと」を重ねると、この問いへの模範的な回答が与えられる。つまり「えがきたいだけえがきたい。」の一節の意味するものとは、ある場所で、作者に美しい「今」が成立しているということだ。あわせて、この詩を成した人物が、詩歴のある詩人であったという条件こそ見逃すべきではない。なぜなら、「今」の意味するものは、人としての熟練により道筋をもって深まるともいえるからだ。
そのうえで想像をふくらませ、『パリの五月に』の作者なら、「詩はどこで読まれるのがふさわしいか」との誘いに、どのように回答するだろうかと考えてみよう。照れながらも、「モンスーリ公園」を挙げたのではないか。仮に、その心情を分析すると、自作の詩「パリに眠る」を読み返すのにふさわしい場所だったから、ということになるだろう。再読することで、創作への意欲があらたに湧くとしたら、それは人類の歴史の理解に一歩近づくことにちがいない。その光景は、人間として幸福な図だと思いたい。
最後にもう一点、突きとめたいとした課題を取り上げる。…成熟とは人そのものが示す価値観なのか、人のおかれた環境が示す価値観なのか、という二つの問いの接点とは… これには「喜びは淡く/悲しみや怖ればかりが深いとしても/夢みたいだけ夢みていたい。」という、自制心を露出させた詩句で答えられそうだ。自己にも環境にもとらわれることなく、純粋なイメージである「あれ」に照らされつつ、「ここ」で新しいイメージを夢みることを、さりげなく肯定している姿は、成熟の位置を超えようとさえしている。換言すると、成熟の価値観を超越することで、二つの問いの接点を求める意味を、無効化してしまっている。あたかも、さきの問いが愚問であると気づくことこそ、真の成熟の意味だといわんばかりに。
それにしても、「詩はどこで読まれるのがふさわしいか」との空想を受けとめられる人物をこそ、探さなければならないと、ふいに思いはじめた。
竹内敏喜(たけうち・としき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)