時間がない。
具体的にいえば、一日のうち40分程なら、自分のためだけの時間を確保できる。
そうした時期が訪れたとき、かぎられた時間をなにに充てたいか、定める必要がある。
でも、自分にとって必要なこと、
それがなんなのかをはっきりおもいだせない。
煩雑な懸念があふれる家路では、
自分の呼吸の速度も深さもおもいだせない。
そんなときに、ふたつの実感を与えてくれた一冊。
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1.
まず詩集をひらくと、紙の質感と、たっぷりとした余白の込め方に、
意図してつくられた間を、つよく感じることができる。
また、冒頭の詩では、最終行のあとに空白の見開きを置いている。
間に導かれ、テキストを追う速度はだんだんゆっくりしたものへと、変えられてゆく。
端々から与えられる的確な沈黙を受け取ることで、
しばらく沈黙から離れていた自分に、ふだんは浮かばない声がふかく及んでくる。
頁を捲るたび、無自覚のうちに、
ことばをよむ、きく、という手順(まずはだまってあいてのこえにみみをすませる)を、
徐々に思いださせてもらっていることに気がつく。
もしこの詩集を詩集として手に取らず、
詩篇のみをテキストで読む機会に巡りあっていたら、
鈍い自分では、意図の込められた、必然性のある沈黙に気づかなかったかもしれないと思う。
2.
表題は、はためにはわかりづらい、白地に白のフォントで記されている。
表題の「白緑」は冒頭の詩の描写から、無花果をあらわすものと推測される。
詩篇に頻出する「無花果」は、
内部に多数の雄花と雌花両方の花をつけ結実するが、
はためには花をつけないようにみえる果物。
「あたたかい未声」「未生の実」「性のないあなた」「声にならないこえ」「生まれえぬもの」「生まれぬまま」「無性のあなた」
不可視な事物を見つめ、聞き、生きていく描写は、
多数の花を内包しくりかえし実を結んでいく無花果=白緑を思わせる。
うまくあらわせない、
しかし自分のなかからは決して消し去ることのできない、
もはやいくども浮かび、つよく結びついてしまったような事物はこの先も内在するが、
それらが生を継続させたり、変哲のない実を結ばせたり、するのだろう。
そんなら、忘れずに考えてしまうのも自然だろう、
忘れずに抱えているのも自然だろう、
あんなことも、こんな思いも。
読後そのように感じたのは、
不可視と共存した視点、
つまりともに「生きていく」「生きている」視点が描かれているからだろう。
可視な事物しかない、生きているものの視点しかない世界に放り込まれたら、私はかげもかたちも無くなってしまいそうだ。