相手がいること、
家族であること、
そうした関係の中で暮らし、そうした関係をテーマにしながらも、
あくまで、詩を、書くこと。
妻を愛しているから、
「愛する妻」と書いたとしても、
その詩が、妻への愛を書こうとしているとはかぎらない。
子がかわいいから、
「古奈」「コナ」と何度も呼びかけるように詩行に書いたとしても、
でも、やはりその詩が、子の可愛さをアピールするためのものとはかぎらない。
詩は、どんなに具体的に家族のことを、愛する人のことを書こうと、
詩は詩だ、とこの詩集は告げている。
改行があり、屈折があり、飛躍があり、転換があり、
どんなに何を書いても、そこに表われる言葉と書き手が必死に対峙している姿を
こんなにも赤裸々に打ち明けてしまって、いったいこの詩人は、
なにを一人で、全部やり遂げてしまっているんだろう、
と初読時にショックを受けた。
そしていまも、読み返すたび、そのショックを再確認する作業をしている。
まるで、飛べない高さまで積み上げられた跳び箱のように、
この詩集が目の前に現われて、飛べるものなら飛んでみろ、
と告げてくるようだから
いつか、いつか、飛んでしまおう。
きっとそうしたら、この詩が、上空からまた広く広く見えてくるだろう。
読んでしまうと、詩はどこかへいってしまって
家族への愛情だけが残る、その読後感はなぜだろう。
とてもとても詩だというのに、
あっというまに場面が切り替わっては、そうと気づかせない自然さで
展開していく心地よさ、
だらにの釘抜き、つまだらに、こなだらに、ぼくだらに、と
言葉の音を拾い上げては、面白い音の並びにしたかと思うと、
それがあらたに意味となってこちらに畳みかけてくる不思議さ、
悪い釘を抜く、天井の良い釘、とイメージがつながって
詩に展開としての流れを生んでいきながら、
そこにある意味の奥行きを開き見せてくる暗喩の力、
そんなふうに折り重なってくる詩の相貌が、
でもなぜか読み進めるなかでふっと消えてしまい、
あとに残るのは、まるでひっそり打ち明けられた思い、のようなものだというのは
それもまた詩の謎、じゃないだろうか。
この本のなかに「旧暦」という詩があって、こんな一節に出会う。
詩で、忘れ難い、と書いたからといって
本当に忘れないという保証はない。
詩は詩、現実は現実だから、それがまずいわけでもない。
でもこの詩人は本当のことを書いている。本当に、忘れ難いんだと思う。
それがわかるのは、奥付の日付。
一九八六年五月五日初版第一刷発行とある。
祝日のこの日に発行日を持ってきているのは
もしかしたらというほど微かだけれど、けっして偶然ではなく、しるしだろう。
奥付というのは旧暦ではなく、新暦ではあるけれど、
本当に、その日のことを忘れ難いんだと思う。
詩に本当のことを書いてしまうところに、
たぶん、家族を書いても詩になり、詩になってもまた
一回転して、家族のところに立ち戻ってくる、この詩人の詩のあり方というものが
生まれ落ちるんじゃないか。