この世には「くらし」という意識空間があって、
自分がじかに触れられるものたちが、そこにはいる。
「くらし」のなかみが厄介なのは、触れることができるところで、
各々がかってに動き、変化するさまを、本意なく感じてしまえるところ。
息のかからない、手のとどかない、目に焼きつかない距離にあればかわいいものを、
「くらし」の事物はすでに我が家のなかにいて、
こちらの空気など読まずにきっぱりと、
声をあげたり、触られたり、経たり、映えたり、それはもう、勝手にしてくれる。
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台所という場は習慣の宝庫で、することなんてだいたい決まっている。
白瓜をつける大伯母の姿が焼きついているような大人であれば、
きっとなにも考えなくてもてきぱきと立ち回ることができる。
でも、はじめの一連から、内側と外側の速度がまるで違っている。
裏返しの一日の始まり。
なんだったんだろう、あれ。
なんなんだろう、これ。
気に留めるほど、じぶんから、外側の時間がはなれてゆく。
ああ、はなれている、とおもい知るたび、じぶんの意識への寄る辺なさが増す。
かえって、気に留めた腑に落ちないものが、はっきりと意識にのぼってくる。
「くらし」を、
“わたし”以外の事物や生態を本意なく身近に感じながら生活すること、と考える者にとっては、
「慣れ親しんでいる違和感」=「くらし」だ。
「くらし」のなかには、腑に落ちない妙なものが、ぽとぽとある。
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妙なものはおかまいなし。
”わたし”を抉じ開けてくることもある。
そう、くらしには潜んでいるのです、ファンタジーが、
「といってもそう単純でもない」。
このファンタジーは、「はやく部屋に戻らなければならないのに」、降りかかってきた厄介なもの。
また、所収されている『失せもの』の一篇ではファンタジーにすっぽり入ることのできない”わたし”の素朴な現実が、
ざくりと切りとられてもいる。
”わたし”は、単純な空想家ではないのだ。
慣れ親しむ現実の違和感に絡まれながら、これを見留め、
認識した違和に、”片を付けてしまうことなく”、存在のままを掬いとろうとする。
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この一篇は、だいぶ間をおくゆったりとした語り口。
どじな”わたし”が余裕をもって、厄介な影の勝手さを、見守っている。
めんどくさくて、気にかかるものが、ぽとぽととある「くらし」の風景。
新詩集には、『ジャム煮えよ』(港の人、2013年)がある。
台所の暗がりを探しにゆく頃よりも違和に対してさらに能動的な感じを受ける。
そのぶんおかしみあり、ヒヤリありの「くらし」ぶりがたのしい。