戦争について考えてみようと思ったときに、しっくりときた本があります。
齋藤恵美子『ラジオと背中』は、
戦争に触れる声と言葉とが行き交います。
まず「写真の外」と題されたこの詩を読んで、 自分の戦争の見方をやっと自覚したのを思いだします。
他者の体験にはへだたりがあって、想像力で埋める必要がある。
このように明言されるまで、普遍的なこのふたつの前提を、
自分がこれまでわかっていなかったことに気づかされたのでした。
いままで耳にしてきたこと、話されたこと、説明されたこと、
それぞれの情報を統合できないまま、
感覚を置き去りにしたところで、ただ目を丸くしている自分が、
そのままこの詩篇のなかに立たされたように思いました。
戦争という名詞は、自分にとって遠さそのものでした。
それでまずは別の、もっと個人的な恐れを帯びた身近な名詞に、置き換えました。
ふかく、まぬがれ得ないという情態を、想起しました。
その情態を戦争にひもづけて再度読むと、
指先が痛くなるほど、身に焼きついてきた。
このような実験を、なんども繰り返し、読みすすめました。
言葉を読んでいるつもりなのに、ときどき目が合うような気がするのは、
既知の感覚を呼び起こす声に出くわすからかもしれません。
平和のなかで満足するのがとても力の要ること、
まちがった充実感に手ごたえを感じてしまうこと、
どちらも身に覚えのあるものでした。
ひとりの人間の大きさの声で象られ、少しずつ、苦手だった名詞の像があかるみにでる。
もし、集められた声が、ひとりの人間の大きさの声でないものばかりだったら、
私には遠いだけだっただろうと思う。
人がいる。
どんな間柄であっても、人の周囲には、へだたりがある。
へだたりを往来する、
言葉は、影響する。声は、影響する。
意識に留まった気配をみつめていると、
ふと、へだたりのうえを跳ぶ、自分に気がつく。