もし自分がこの詩集を読まなかったら、いまのようには詩を書いていなかっただろうと思う詩集が、くっきりと一冊ある。
九〇年代末に、渋谷パルコ地下一階の書店は、たしかパルコブックセンターという名前だったけれど、そこには詩集の棚が他の書店よりもずいぶん充実してあるように感じられ、また、他の本にしてもひとつひとつの分野が大切に、こちらに伝わってきやすく扱われていたせいか、ふうぅと心が落ち込み気味のときに、あるいはただ、渋谷で少し時間があるときにふらっと、よく立ち寄る本屋だった。
そのパルコブックセンターの詩集コーナーで、なんだろう、この不思議な題名は、と手にとったのが『空気集め』という詩集だった。
やや細みの背を棚から抜きとり、まずはと目次を確かめて気づいたことに、空気集め、なんていう素敵なタイトルがついているにもかかわらず、肝心のその、空気集め、という題名の詩が入っていなかった。
(これは、なんてぜいたくなことだろう、と思いながら)
「空気」という、表題に近い詩があったので、ページを繰って読んだ。それは詩集のいちばん最後に収められた詩で、こんなやわらかい言葉の詩が、現代詩にはあるのかと、現代詩って、こんなやわらかい言葉で書いてもいいんだ、とうれしさを覚えたんだった。
窓がどこで、どこから何を、そしてどんなふうに目のまえの情景が浮かびあがっているのか、読んだとおりのことが書かれているだけなのに、何度もくり返し詩行を追っては、首をひねりながらすがたを辿っていったその詩の感触は、まだ、まさか、じぶんが詩を書くようになるとは思ってもいなかったそのころのぼくのなかに、深く深く残り、数年後、ひょんなことから短い詩を書きはじめ、さらに数年後、こんな詩を書いていきたいな、という詩を書きはじめたころ、ふいにこのときのことが思い出されたのは、まさにじぶんが、詩を書き綴っているさなかのことだった気がする。
気がする、というのは、いまから思えばということで、そのころはただ、初めて出会ったと言っていいだろう、書店の一角で見たこともない言葉を目のまえにしている驚きやおののきに包まれていたり、やがて筆を取り詩が生まれるさなかにどぼんと入り込んでいたりして、何が起きているのか、わけもわからず無我夢中だったと思うから。