どうでもいい話と云えばそうなのだけれど、詩学社発行の大谷良太第一詩集『薄明行』をなぜか2冊も持っている。どうしてなのかいくら考えても思い出せなくて、とても不可解に思う。ただ、そうした妙なことも、私にとっては意外としっくりくるような感じがある。大谷良太の作品を読んでいるときの感覚と、それはよく似ているのかもしれない、とも思う。
同じ詩集がなぜか2冊もあるというようなことは、日常的な出来事とは云えない。とはいえ、突飛で非日常的な風景と言い張れるほどの新奇さがあるわけでもない。その、なんとも云えない物事のあらわれかたの中に、たとえば詩のようなものも存在している。
日常とは違った言葉の用い方が、詩をかたちづくる。ただ、どれほど違っているかということが詩らしさを決めているわけではない。より多く違っているからといって、より詩らしいということではないし、より優れているということでもない。まあ云うまでもないことだけれど。
この詩集に限らず大谷良太の作品は、日常を背景にしながらどのように詩を成立させるのか、そのための過不足ない言葉の用い方について、いつも考えさせられる。そして同世代の詩人として、いまの世間に身をさらしながら、愚直に抒情詩を書くことの困難と素晴らしさをも、私は大谷良太の作品を通していつも感じている。繰り返し、繰り返しずっと読んでいくに違いない詩集だと思う。