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大谷良太『ひなたやみ』

(ふらんす堂、2007年7月11日発行)

 どうでもいい話と云えばそうなのだけれど、詩学社発行の大谷良太第一詩集『薄明行』をなぜか2冊も持っている。どうしてなのかいくら考えても思い出せなくて、とても不可解に思う。ただ、そうした妙なことも、私にとっては意外としっくりくるような感じがある。大谷良太の作品を読んでいるときの感覚と、それはよく似ているのかもしれない、とも思う。

台風   大谷良太


台風が近付いているらしく、
雨が降ったり止んだりした
ベランダの洗濯紐のしなる音がガラス越しに聴えた
朝から何も食べず、
じっとしているうちに夕暮れになった

明かりもつけないでいるうちに夜になった

 同じ詩集がなぜか2冊もあるというようなことは、日常的な出来事とは云えない。とはいえ、突飛で非日常的な風景と言い張れるほどの新奇さがあるわけでもない。その、なんとも云えない物事のあらわれかたの中に、たとえば詩のようなものも存在している。

 日常とは違った言葉の用い方が、詩をかたちづくる。ただ、どれほど違っているかということが詩らしさを決めているわけではない。より多く違っているからといって、より詩らしいということではないし、より優れているということでもない。まあ云うまでもないことだけれど。

 この詩集に限らず大谷良太の作品は、日常を背景にしながらどのように詩を成立させるのか、そのための過不足ない言葉の用い方について、いつも考えさせられる。そして同世代の詩人として、いまの世間に身をさらしながら、愚直に抒情詩を書くことの困難と素晴らしさをも、私は大谷良太の作品を通していつも感じている。繰り返し、繰り返しずっと読んでいくに違いない詩集だと思う。

ハッピーライフ   大谷良太

両腕を交差した
レスキューレスキュー
歳月をくねらせて
つぶさに検討してみたら
何もなかったことに気が付いた
(おおあわてできみにメールを打った)
耳に心地いい音だけが
ポップになるのか
ポップだけが
耳に心地いいのか
見てきたようなことを言うひとだなと思った
ひなたで温められた水中に
何があるのか計りたい
ひなたで温められた水中に
ゲバルトって誰ですかと訊かれて悲しかった
ロラン・バルトの弟だと答えた
赤ん坊に毛が生えたような
赤ん坊に濃い毛が生えたような
よかったらぼくと踊りませんか?
ぼくが処女だとおもいますか?
先生がサックスを吹くなんて!
人民服の人たちがやって来る
止揚するためにあった祖国よ
父祖の土地を耕せば
馬鈴薯も育つだろう、インゲンも生るだろう
やがて街が出来て
ボーリング場とか建つのだ
子孫はターキーを出すだろう
みんなハッピーに生きていって
それがライフになる
ハッピーライフ。
夢こそは見るべきだ友よ

文/古溝真一郎

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