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今月のコトバト

2015.9

 きざみつづけた   永瀬清子

すぐれた詩書、すぐれた評論。
人々はそこでいつも宴をはるのに、シンデレラの私はいつも遅れた。
私は自分のきざんでいる胡瓜やにんじんの中に、そのすぐれたものらと同じものを探す。
いつかはやさしい魔女がくる。やさしい呪文がとなえられる。
私は胡瓜や大根の向うに、きっと晴やかな広い耕地があると信じ、きざみつづけた──。

point

illustrated by ©Yuh Morimoto

 これを書いたのが誰か、どのような背景のもとに書かれた言葉か、とそうしたことに構わず、ただ読んでいたいと思わされます。暮らしがあり、時が過ぎ、人は営みをくり返し、積み重ね、老いていきます。胡瓜やにんじんをきざみつづけることが、人生それ自体です。心に刻むということと、野菜を刻むということは、別のことですが、この詩を心に刻みたくなります。そして数日か、数週間後には、この詩のことをきれいさっぱり忘れて、また日々を送っていくようにも思います。土から生まれたものが、土へと還るように。

 シンデレラの魔法は十二時で解けますが、脱ぎ忘れられたガラスの靴は翌日になってもガラスの靴のまま、王子の手元に残ります。再び主のもとへ戻れるように。主のもとへ、王子を導いていけるように。それもやさしい魔女のやさしい呪文だったでしょうか。

 日々積み重ねられるケの営みを抜きにして、魔法で幸せが生み出されることはあります。また、魔法が解けた元の姿で出会っても王子の心を射止めたように、胡瓜や大根の向うにこそ、晴やかな広い耕地がある、という幸せの道もあります。どちらもあって、その落差に疲労に似たおののきを覚えもしますが、ひるまず、きざみつづけてきた者がこの詩を書きました。

「そのすぐれたものらと同じもの」、それが見つかったかどうかを、問う必要はないように思えてきます。すぐれたものらと同じだろうと異なろうと、きざんでいる胡瓜やにんじんの中にあるものをこそ、見つめたいと思えるのです。そのきざまれた野菜たち、その脱ぎ解かれた靴こそが、見つめていたいものとしてあり続けます。

 あけがたにくる人よ   永瀬清子

あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の所へしずかにしずかにくる人よ
一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく
わたしはいま老いてしまって
ほかの年よりと同じに
若かった日のことを千万遍恋うている

その時私は家出しようとして
小さなバスケット一つをさげて
足は宙にふるえていた
どこへいくとも自分でわからず
恋している自分の心だけがたよりで
若さ、それは苦しさだった

その時あなたが来てくれればよかったのに
その時あなたは来てくれなかった
どんなに待っているか
道べりの柳の木に云えばよかったのか
吹く風の小さな渦に頼めばよかったのか

あなたの耳はあまりに遠く
茜色の向うで汽車が汽笛をあげるように
通りすぎていってしまった

もう過ぎてしまった
いま来てもつぐなえぬ
一生は過ぎてしまったのに
あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の方へしずかにしずかにくる人よ
足音もなくて何しにくる人よ
涙流させにだけくる人よ

文/編集子

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