これを書いたのが誰か、どのような背景のもとに書かれた言葉か、とそうしたことに構わず、ただ読んでいたいと思わされます。暮らしがあり、時が過ぎ、人は営みをくり返し、積み重ね、老いていきます。胡瓜やにんじんをきざみつづけることが、人生それ自体です。心に刻むということと、野菜を刻むということは、別のことですが、この詩を心に刻みたくなります。そして数日か、数週間後には、この詩のことをきれいさっぱり忘れて、また日々を送っていくようにも思います。土から生まれたものが、土へと還るように。
シンデレラの魔法は十二時で解けますが、脱ぎ忘れられたガラスの靴は翌日になってもガラスの靴のまま、王子の手元に残ります。再び主のもとへ戻れるように。主のもとへ、王子を導いていけるように。それもやさしい魔女のやさしい呪文だったでしょうか。
日々積み重ねられるケの営みを抜きにして、魔法で幸せが生み出されることはあります。また、魔法が解けた元の姿で出会っても王子の心を射止めたように、胡瓜や大根の向うにこそ、晴やかな広い耕地がある、という幸せの道もあります。どちらもあって、その落差に疲労に似たおののきを覚えもしますが、ひるまず、きざみつづけてきた者がこの詩を書きました。
「そのすぐれたものらと同じもの」、それが見つかったかどうかを、問う必要はないように思えてきます。すぐれたものらと同じだろうと異なろうと、きざんでいる胡瓜やにんじんの中にあるものをこそ、見つめたいと思えるのです。そのきざまれた野菜たち、その脱ぎ解かれた靴こそが、見つめていたいものとしてあり続けます。