今月のコトバト
2014.10
干してある 石垣りん
私の肩にかかる
ふんわりとやさしいものが
よせてくる波打ち際
なんべんも溺れて解けて
消えて生まれる。
意識というもの
記憶というもの
あたたかい波の
きれぎれの海岸線に沿つて、
夫婦という町
兄弟という町
親子という町
恋人という町
その入江にひろがる
夜の深さ
夜明けのうすあかり。
ふとんはひろがる
いのちの半分
心の半分
世界の半分
太陽が月にかぶせる
あの遠い半分の影のように。
浅く深く
かたくおもく
やがて呑む、
つめたくはげしく
全部の町
全部の人
ふとんの中の魚
ふとんが打ち上げる貝殻
たえまない饒舌
白い歯。
ふとんが空にいちまい。
illustrated by ©Yuh Morimoto
ときに人生には、自分の意思ではどうにもならないことが重くのしかかってきます。石垣りんの詩を読んでいると、そのことを強く意識させられる詩にしばしば行き当たります。
夫婦、兄弟、親子、恋人。そうした存在を町にたとえながら、それらと向かい合わせに置かれるのは「夜の深さ」であり「夜明けのうすあかり」と呼ばれるものです。いのちや心、世界の半分は、闇の中にあり、やがて夜が全部をつめたくはげしく呑んでしまうとは、どのような心から出た言葉なのだろうかと思うと、暗く深い淵を覗き込むような気持ちになります。
ある諦念がこの詩に満ちているのを感じますが、光と闇を包含しながら一日は過ぎ、また新たに一日が訪れ、人を夜へと招き入れる「ふとん」が昼のさなかには日の下に干され、まばゆくはためくという情景によるこの詩の締めくくりには、諦念を伴って吹っ切れた心のさまを見る思いがします。
どうすることもできない諦めの後に生まれる、喪失を受け容れた穏やかさが、織り込まれているように感じられます。
そのように、人の心の奥底へ届く石垣りんのまなざしは、高く高く天空から人の世を貫く鋭い槍ともなります。
洗たく物 石垣りん
私どもは身につけたものを
洗っては干し
洗っては干しました。
そして少しでも身ぎれいに暮らそうといたします。
ということは
どうしようもなくまわりを汚してしまう
生きているいのちの罪業のようなものを
すすぎ、乾かし、折りたたんでは
取り出すことでした。
雨の晴れ間に
白いものがひるがえっています。
あれはおこないです。
ごく日常的なことです。
あの旗の下にニンゲンという国があります。
弱い小さい国です。
文/編集子