ほんの短な四行詩。
でもその短さに詰まっているものを汲みとろうとすると、急に、短かったはずの詩の一行、一句、一文字がふくらんできて、意味や音が広がるように感じられる詩。
道を歩いていて、蝶と出くわす。蝶は周囲を舞い飛び、目のまえを横切る。そこに、意味とはいえない、声を付与する、「踏切りよ ここは……」と。
その声を言ったものも、聞いたものも、本当は一人なのかもしれないけれど、発し、受けとる、その間に引かれた一線が、信号になって、足を踏みとどまらせる。
この詩のなかの、くっきりとした言葉の響きは、「私は立ちどまる」という最後の言葉です。なんらかの兆候を見出し、あるいは何かの制止が働き、足をとめてしまう、その機微がこの詩には働いています。
三好達治の詩では、個人的に、そうした短いものの印象が深く残っています。
たとえばそれは詩集『花筐(はながたみ)』に収められた、いくつかの詩の印象でもあります。
三好達治の詩を集めた、小さな文庫を一冊、手にとってみると、これらの短な詩を読むのに、文庫という本の小ささが、しっくりくるのを感じます。じんわりと言葉が伝わってきて、さまざまに解釈し、受け取れる、ふくらみのある詩には、手のひらをひろげて読むのがこんなに合っているのかと、いまさらのように感じています。