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今月のコトバト

2013.12

 青猫   萩原朔太郎

この美しい都会を愛するのはよいことだ
この美しい都会の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
街路にそうて立つ桜の並木
そこにも無数の雀がさへづつてゐるではないか。

ああ このおほきな都会の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を恋しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

nuko

illustrated by ©Yuh Morimoto

 萩原朔太郎は、日本の口語自由詩をきりひらいた詩人といわれています。
(日本初の口語自由詩は、川路柳虹が1907年に発表した「塵溜」のようですが)

 上に引用した詩「青猫」を表題作とする詩集『青猫』の序をみると、萩原朔太郎が何を以て詩としているのかを、相反する言葉で語っているように見えます。

 かつて詩集「月に吠える」の序に書いた通り、詩は私にとつての神秘でもなく信仰でもない。また況んや「生命がけの仕事」であつたり、「神聖なる精進の道」でもない。詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。
 生活の沼地に鳴く青鷺の声であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。

 詩はいつも時流の先導に立つて、来るべき世紀の感情を最も鋭敏に触知するものである。されば詩集の真の評価は、すくなくとも出版後五年、十年を経て決せられるべきである。

 詩を作ること久しくして、益〃詩に自信をもち得ない、私の如きものは、みじめなる青猫の夢魔にすぎない。

 詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。しかし詩とは、いつも時流の先導に立って、来るべき世紀の感情を最も鋭敏に触知するものである。そして私は、詩を作ること久しくして、ますます自信のない、みじめな青猫の夢魔にすぎない。

 「青猫」の最終行にいう、「このひとのごとき乞食」が「夢みて居る」「夢」とは、みじめな青猫の夢魔である私が、青鷺の声や風の音になることを夢みた、夢=詩のように感じられます。

 神秘にも信仰にも生命がけの仕事にも神聖なる精進の道にも還元させることなく、自分にとって、悲しき慰安である詩を夢想する、青猫の夢魔。と、そんなふうに己を見なすのが、この詩「青猫」を、詩集『青猫』を書いた萩原朔太郎の姿でしょうか。

文/編集子

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