秋に吹くのはどんな色の風だというのでしょう、身にしみるほどに哀れ深いのは、と秋の風を見つめようとし、
いまはもう秋の終わり、と告げるように立ちこめる霧さえ哀れ深いのです、あのときの朝の空に似て、と晩秋の秋空に、記憶のなかの情景を重ねます。
二首目(今はとて……)の歌には
と詞書が添えられ、まるで何を見てもあはれを覚えつつ、裏を返せば、いつも心にはあはればかりが満ちていて、目にした事物のどれにも、何にも、あはれが映って見えてしまうかのような詠いぶりです。
とはいえ内なる歌の意が出過ぎることなく、歌い表わされる言葉に沿ってにじみ出てくるのは、心情を言葉にすることと、言葉に表わすことによって心情が生まれることとがほとんど等しい歌の姿に感じられ、和泉式部とは、修辞の極みを迎えた平安中期にして稀な歌人なのだとまざまざと思わされます。
秋風の色という、いまの目から見ればありふれたような題材を歌ってなお際立つ歌になり、ありし日の朝の思い出を霧になぞらえながらも居ずまいを崩さない歌いようは、たとえば「いかなる色の風なれば」という問いかけや、「霧さへぞ」という語の響きに、歌人の真実が感じられるからではないでしょうか。いいかえれば、歌に遊びが入り込む余地がなく、それでいて優美な調子は褪せることのない歌の姿に支えられたもののように思えます。
わずかでもずれれば失われそうなあやうい均衡をすんでで成り立たせる、和泉式部の歌への向き合いかたに、ただただ驚嘆するばかりです。