生活保護と詩人―あるいは生活と詩―
香澄海
編集人の白井さんから「詩学の友」に生活保護のことを書いてくれと言われたとき、私は正直きょとんとしてしまった。私にとっては生活保護は身近な制度であるけれど、詩のサイトである「詩学の友」にそのテーマでどう書けばよいのだろうかとしばらく悩んだ。悩んだから何かわかったというわけではさらさらないのだけれど、ともかく依頼を受けてからもう3か月くらいになるので、悩むのは打ち止めにして、とりあえず今の時点で書けることを書こうと腹をくくった。
私のこの戸惑いは、とりもなおさず、詩と現実の生活が私の中で如何に乖離しているかということ、そしてまた最近の私が詩とは関係ないところで文筆活動をしているという多少の後ろめたさに起因している。それでも、とぼとぼと生活保護のことを語ろうと思う。
私が生活保護を身近な制度と感じるのには、2つの理由がある。一つには、私の友人に障害者が多くいて、障害年金だけでは暮らしが成り立たず足りない部分を生活保護で補っている方々が多くいることがあげられる。それから、私自身も生活に困窮していて、いつ生活保護を利用することになってもおかしくない立場だということだ。
生活保護法には、無差別平等という原則があり、本来生活に困窮している人ならば、役所に申請して受給できる。しかし、残念ながら少なからぬ福祉事務所で申請書を渡さないなどの不法な“水際作戦”が横行しており、生活保護を申請するのはかなり難しい状況となっている。無差別平等ということは、医療を受けるときと同じく、その人の生活態度がどうだとか、品行方正に暮らしているかなどとは関係ないということで、憲法25条でも保障されている国民の権利である。
ところが、去年から生活保護利用者に対するバッシングが、自民党の片山さつき参議院議員を筆頭に始まった。彼らの政治的意図は明確だ。生活保護を叩くことで、社会保障の全面的引下げを企図している。そして、最低賃金の引き上げなど、自らの権利を主張するのではなく、より弱い者を叩く方向へワーキングプアを誘導した点でもかなり悪質なキャンペーンであった。
そもそも、片山らが行った不正受給キャンペーンには何ら根拠はない。研究者らの報告によれば、不正受給は金額ベースで0.4%程度である。しかし、片山らのキャンペーンのおかげで、生活保護利用者の大半が不正に制度を利用しているかのようなイメージを多くの人が持ってしまったのではないだろうか。ちなみに0.4%というのは、諸外国の不正受給の比率からみると、かなり低い数字である。また、不正受給の中身についても、高校生のアルバイト代が収入申告されていなかったなど、福祉事務所の説明不足のケースも多いと指摘されている。
ところが、こうしたキャンペーンに沿う形で、今年8月から9割を超す世帯で生活保護費が切り下げられることになってしまった。一番引き下げ率が高いのが子どものいる世帯である。貧困の連鎖を断つどころか、それを押し進める形で改悪は進んでいる。そして、このことは生活保護利用者だけの問題ではない。何故なら、生活保護はナショナルミニマムであり、非課税世帯や障害者の介助利用料や就学援助など30以上の制度の基準となっているからである。
さて、政府は今回の切下げを手始めに来年4月と再来年4月にも保護費切下げを予定している。それでどれだけのお金が浮くのかと言えば、670億円である。ちなみに最近決まったオリンピックにかける東京都の予算がいくらだかご存じだろうか。4088億円だ。税金を使うところを間違えていると思うのは私だけだろうか。
生活保護を利用して暮らしている方々からは悲痛な声が寄せられている。「お風呂の回数を減らさなければならない」「エアコンをつけないようにしなくては」「一日2回の食事だったけれど、もう少し減らさないといけない」
「健康で文化的な生活」を保障できず、原発の事故処理を後回しにする議員たちは「自己責任」という言葉が大好きなようであるが、私にはブラックジョークとしか思えない。
最後に、詩の話をしよう。私が最近、詩を書いていないのは「それどころじゃない」と感じているからだ。たぶん、それは私の詩人としての力量のなさ故で、書けるものならば、生活困窮や生活保護のリアルを詩で表現したいと思っている。でも、それって結構難しい。未熟者の私に代わって書いてくれる詩人さんがいたら助かるなぁ、と他力本願しておこう。
香澄海(かすみ・かい)
2004年詩学新人。現在は障害者の作業所に通うかたわら、精神医療福祉問題を扱うミニコミ誌「おりふれ通信」の編集兼ライターをやっている。