一冊の詩集があって、誰かにその魅力を伝えたいとき、ただその一冊を手渡すことのほかには、何も方法がない。私にとって素晴らしいと感じられる詩集はたいていそのようなもので、だから私は、好きな詩集について話すことが苦手だ。あまり好きでない詩集についてなら、いろいろ語ることもできそうだけれど……。
「私はこの詩集が好きなんですよ」なんて、軽々しく誰かに言うわけにはいかない。「どこが好きなの?」と問われたりしたら、分かりやすく簡潔な言葉なんかで、無理やり説明する破目になる。そしてそれは間違いなく、うまくいかない。
はっきり分かると感じられたとき、人はそれについて考えることをやめる。だから当たり前のことだけれど、考えつづけるということは、分からないままで居つづけるということだ。人間は何でもすぐに分かりたがるし、とりわけ今の世間では、大きな声で答えを叫んでいるような人がたくさんいるから、分からずに居つづけることの方が難しい。
そうだとすると詩の持つ豊かさとは、たとえば「啓示のように降りてくる何かの答え」みたいなものだとは思えなくて、むしろ分かりきったことさえも際限なく分からなくしつづける営み、のように思える。「詩を読んでもちっとも分からない」という巷の不満は、詩にとってみればほとんど誉められているようなものかもしれない。
「この詩集の、どこが好きなの?」と仮に問われれば、私はきっとそのようなことを言うだろう。相手はきっとよく分からないような顔をする。そうするともう、答えるかわりに詩集を手渡すことのほかには、何も方法がない。