詩というのは、その詩が書かれるまでに要した歳月まで見えるものなのだ、ということが、『十三か月』に収められた詩を読むと、しみ込むように伝わってくる。どの一篇も、詩集のその見開き、そのページにあることの必然性が感じられ、そう感じられることが、詩を読み進める助けのように、読み手であるこちらを、く、くっと引っぱる。
こう始まる。
「陽が沈んだ/月が昇った」
それはただの天体の運行であり、事実の記述を連ねた二行。でもこの二行が、詩集の出だしであることに、安堵する。これまで起きてきたことが、いままた起こる。それだけを記述してあることに安堵する。安堵するとともに、この二行以外のことがどうであるか、ということに沈黙する。詩も沈黙からはじまり、読み手も沈黙を抱えながら読む。これまで起きてきたことが、これからも起きるとはかぎらない。日常が変わってしまった。その後の世界で詩を書くとき、この始まりの二行は、書き手に必要な足場であり、ある境を持ったこの世を語るための、ひとつの所作だと思う。こうした石渡の、詩の手つきの確かさは、必要なものをたぐり寄せつつ、大事なものをあわててこぼし落とさないふるまいを湛える。
二〇一一年三月から翌年三月まで、ひと月ずつ十三か月、十三篇の詩から成る。それぞれの詩には題名と挿画の刷られた扉が挿し挟まれる。表紙、裏表紙、総扉、十三か月の詩の扉の挿画は、高瀬久美が描く。その絵と詩の重なり、呼応が、またひとつの味わいとなっている。そこにあるものを描き、そこにないものは描かれない。詩集の書き出しに通じるまなざしであるように思う。
刊行から一年余り経った、今年の夏の初めにこの詩集を手にし、東京から家へ帰る飛行機の中で読んだ。思えば、それは僕が震災を機に東京から避難した、当の経路そのものだ。あのときとほぼ同じ空路を通過しながら、この詩集を読めたのは、何かをなぞる行為になるのだろうか。読みながらそうと意識していなかったとしても。偶然の符合が、後追いで、問い返してくるように。
これらの詩は、いつ書かれたのだろうか。いつ書きはじめ、いつできあがり、いつ詩集に収める原稿として編まれたのだろうか。それはいつでもいいし、できあがった本があればいい。先に述べたように、ここにはくぐり抜けてきた歳月そのものが宿っている。違う場所で、違う人間が、もちろん違う生を生きながら、確かにどこかで誰か、自分と同じだけの時間をくぐり抜けてきた、その歳月があるのだと、手にとるように感じられることに、安堵する。安堵して、その時間の積み重なりの感触を、いま心に留められるだけ留めておこうと思う。いつまた何を失わないともかぎらない中で、くぐり抜ける営みが生の足跡であることを、記し、示す詩集がある、という幸いに接しながら。