この本を読んで欲しくて、たびたび人に贈ってきました。
 ある時、悦に入って友人に呉れてやると、「これ、前にもらった」と言われ、恥をかいたことがあります。
 それでも、彼女は快くもらってくれました。
 茨木のり子さんは、「情熱こめて」、一つ一つの詩を、心の中からとりだして語りだします。
 安西均、黒田三郎、岸田衿子、吉野弘、石垣りん……、その他たくさんの詩人による、主に「戦後の詩」を、読むにやさしく、平易な表現のものがほとんどですが、ときに、顔を赤らめてしまうようなとびきりの「恋唄」、ときに、やるせないけれどもユーモアに満ちた生活詩、などなどが織りなす言葉の饗宴です。
 茨木さんはこんなことをいいます。
 この言葉に、僕はどれだけの希望をもらったかわかりません。そしてこれは、実はとても痛烈な社会への批評です。
 しかし、「一篇五億円」とは、なんとまあ楽しく鋭い想像であることでしょう。
「寂しさの歌」を引用して茨木さんは、「その題名にもかかわらず、全体を支えているのは憤怒に近い怒りの感情」といい、「金子光晴の詩業ぜんぶにも当てはまること」として、こう述べます。
 ところで、この本のタイトルは、「詩のこころを読む」。「詩を読む」ではありません。詩の「こころ」を読んでやろうという試みです。
 レトリックよりも、詩人の生きた暮らし、詩に込められた詩人の思い、に力点を置いて、「結晶」になったそのこころもようを味わおう。
 「偶然に「誕生から死」までになってしまった」と語るこの本の構成は、人の一生に出会えた詩が、あるときには生活を彩り、またあるときには寄り添い慰め、詩とともに生きてゆく素晴らしさに気付かせてくれるのです。
 茨木さんは、濱口國雄の詩「便所掃除」を紹介します。
この詩に寄せて茨木さんは、
 と、やさしいけれどとても重要な詩論を展開します。そして、
 なんて茶目っ気をみせるのです。
 正直者が馬鹿をみる、そんな言葉があります。
 僕に、もし詩が産まれるのであれば、馬鹿をみても正直者でいたいと思います。
 詩ってなんなの? という読者には、やさしく詩の扉をひらき招き入れ、詩なんてしってるぜ! という血気盛んな若者には、詩の多様な表現をもって恥じらいを感じさせ、また、詩を志す者には、詩作の秘密のエッセンスと、重厚な詩の世界の感覚をもたらしてくれることでしょう。
 そんな本です。
 つまるところ、詩が、大好きになってしまうことうけあいの一冊なのです。