五月の風呂につかりながら頭のぐるりを飛び交った詩、三つ
阿蘇豊
来月、わが家の書斎と呼んでいる部屋の床を張り替えることになった。そこで何年かぶりに大掃除をすることとなった。書架に収められた詩の本たちがチラチラ呼んでいる。掃除を忘れて読みふける中に、改めて感じ入る作品があった。例えば――
まず、「静謐」という言葉が浮かんだ。音やモノが散乱している我が庵には見あたらない時空間、静謐。そのただ中にいて、筆者は目を見開き、か、目をすがして、か、知らないけど、観察を重ねる。
観察。昔、詩を書き出して、東京詩学の会に通い始めたころ、よく耳にした観察の大切さ。詩は観察から始まる…そんなことを思い出させてくれる。この詩では鳥たちは「空の深度を窺」い、楠の大樹は静かに「冬の光をはじ」き、蔦の葉の影が「模様を織り出し」、斑猫を「一本の棒」に例える。観察による描写。いや、単なる描写を超えた独自の表現だ。観察という受動から独自のことばで織る能動へ。そしてリルケの一節に載って、何かの兆しに気づく。「断層が きらきらと」という暗示。だが、日々は「巻き戻せ」ず、ただ「ひたむきに暮れ」るばかりなのだ。アア、生真面目になぞってしまった。静謐な絶唱に首まで浸かってしまった。
少し休もう。
ひとつ深呼吸をして、吐き出した息の中から、こんな詩が転がり出た。
ウイリアム・C・ウイリアムズのこの短い詩は、深呼吸から転がり落ちたように、もはや私の身体に巣くっている。私の場合、詩といえば、初めの初めにこの詩が浮かぶ。分析的にどうのこうの言える対象ではなくなっている。あえて言うならば、ただ、「好き」。私にとっては、原点のような詩だ。(「ようなし」と打ち込んだら、「洋梨」とはじめに出て、次に「用なし」と出た。ここでは「桃」なんだけどね。)
私は生真面目に読み込む方じゃないのだが、一読、二読、三読して、何か大きな「黒々と」したものが残った。何だろう。何かわからないけど、原始、原点、生の理なんて言葉が口をついてくる。詩の初めの方は、自然や運命(?)に、揉みしだかれている様子、後半はそれに逆らおうとする力だろうか。そして、「いきなおそうとしている」。ひらがなの一音節ずつが確かな一歩を伝えているかのようだ。そう、この一行で十分。長く書く必要はない。タイトルの「根幹」もこれで頷けるというものだ。
…ボクハキョウヲドウイキナオソウカ。
阿蘇豊(あそ・ゆたか)
1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『とほく とほい 知らない場所で』(土曜美術社出版販売、2016)
『シテ』『布』『ひょうたん』同人