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《第二期》詩の散歩道 16

五月の風呂につかりながら頭のぐるりを飛び交った詩、三つ

阿蘇豊

 来月、わが家の書斎と呼んでいる部屋の床を張り替えることになった。そこで何年かぶりに大掃除をすることとなった。書架に収められた詩の本たちがチラチラ呼んでいる。掃除を忘れて読みふける中に、改めて感じ入る作品があった。例えば――

  きらきらと

二月十九日 月曜日
雨水
夜明け前
空の深度を窺う鳥たち

午後二時
晴天
ランタン草は俯いて咲く
楠の大樹が鎮まりつつ
冬の光をはじいている

フェンスを這う蔦の葉の影が揺れて
ベーズリー風の模様を織り出した
ガレージのコンクリートが温まり
斑猫が四肢を伸ばして目を閉じた
一本の棒のように

そして
何かが傾きはじめた

向こう岸の断層が
次第に崩れていく
きらきらと
…この夕べ何ものかが大気の中を通り過ぎて
 そのものが 頭を垂れさせる…*

何者をも満たせない
私たちの愛
旋律を忘れた蓄音機
巻き戻せない
日々

ひたむきに
暮れていくのだった

                *リルケ詩集<果樹園>「この夕べ何ものかが」より

 (杜みち子/詩集『ぱらっぱ らっぱ』より)

 まず、「静謐」という言葉が浮かんだ。音やモノが散乱している我が庵には見あたらない時空間、静謐。そのただ中にいて、筆者は目を見開き、か、目をすがして、か、知らないけど、観察を重ねる。
 観察。昔、詩を書き出して、東京詩学の会に通い始めたころ、よく耳にした観察の大切さ。詩は観察から始まる…そんなことを思い出させてくれる。この詩では鳥たちは「空の深度を窺」い、楠の大樹は静かに「冬の光をはじ」き、蔦の葉の影が「模様を織り出し」、斑猫を「一本の棒」に例える。観察による描写。いや、単なる描写を超えた独自の表現だ。観察という受動から独自のことばで織る能動へ。そしてリルケの一節に載って、何かの兆しに気づく。「断層が きらきらと」という暗示。だが、日々は「巻き戻せ」ず、ただ「ひたむきに暮れ」るばかりなのだ。アア、生真面目になぞってしまった。静謐な絶唱に首まで浸かってしまった。

 少し休もう。
 ひとつ深呼吸をして、吐き出した息の中から、こんな詩が転がり出た。

  あの、ちょっと

ぼくは
アイスボックス
にあった桃
を食べてしまったよ

で それは
きっと君が
朝食のために
とっておいたんだろう

ごめんね
桃はうまく
すごく甘く
すごく冷たかったよ

 (鍵谷幸信/「ブローティガンのいる風景」,『現代詩手帖』1979年5月号より)

 ウイリアム・C・ウイリアムズのこの短い詩は、深呼吸から転がり落ちたように、もはや私の身体に巣くっている。私の場合、詩といえば、初めの初めにこの詩が浮かぶ。分析的にどうのこうの言える対象ではなくなっている。あえて言うならば、ただ、「好き」。私にとっては、原点のような詩だ。(「ようなし」と打ち込んだら、「洋梨」とはじめに出て、次に「用なし」と出た。ここでは「桃」なんだけどね。)

  根幹

盛大な
雷雲をふくんだ木々が
生と死の色をいよいよ濃くしている径で
緑のなかの無数の悪意が
獣の体毛のように 生暖かい

ひどく冷たいものと 熱いものが
先程 攪拌されていったようで
凶暴に剥き出しになった
怖れも 怒りも
今は 冠水した芝生のあたりにたゆたっている

誰かが 殴り描いたような
鴉が二羽
振り返ったその先には
もう 時代がわすれてしまったらしい野生がある

昨日までとは 明らかにちがう
そういう雲が湧き上がっている

いきなおそうとしている

黒々と

 (早矢仕典子/詩誌『no-no-me』27号より)

 私は生真面目に読み込む方じゃないのだが、一読、二読、三読して、何か大きな「黒々と」したものが残った。何だろう。何かわからないけど、原始、原点、生の理なんて言葉が口をついてくる。詩の初めの方は、自然や運命(?)に、揉みしだかれている様子、後半はそれに逆らおうとする力だろうか。そして、「いきなおそうとしている」。ひらがなの一音節ずつが確かな一歩を伝えているかのようだ。そう、この一行で十分。長く書く必要はない。タイトルの「根幹」もこれで頷けるというものだ。
 …ボクハキョウヲドウイキナオソウカ。

profile

阿蘇豊(あそ・ゆたか)

1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『とほく とほい 知らない場所で』(土曜美術社出版販売、2016)
『シテ』『布』『ひょうたん』同人

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