冬の寒さにこわばった肩のあたりを軽くほぐしてくれた詩、みっつ
阿蘇豊
やっと春。庭のフキノトウのきみどりがそれを告げる。今まで灰色だった空が青く染まる。海が見たくなって車を駆ける。夕暮れ時の砂浜には誰もいない。風がまだ冷たい。一日の記念に波打ち際に落ちている貝がら、小石を拾いポケットに入れる。そんな中で――
いろいろな詩がある。わかりやすい詩、ムズカシイ詩、堅真面目な詩、ひょうきんな詩・・・詩ってなんだろう、と考えても答えはすぐに出ないけど、先ごろ新聞で見かけた井上ひさし氏のことばに手がかりを見る。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」これは詩にも当てはまる。
だいたい誰が「花の温度」なんて気にするだろうか。花の形、色、においなどは花を味わう要素になるけれど、その花びらが冷たいかあったかいかなんて。昔、詩を書くコツとして、事物をよくよく観察すること、なんて先輩詩人に教えられたけど、「花の温度」という着眼は観察をはるかに超えている。これぞ発見!そして先のことばを引けば、この詩、やさしくて深い、そしてどこかとぼけた味がする。
アルツハイマー。我々中高年にとって、それこそ禍々しい言葉だ。一つのことば自体がこのぐらい強い力を持つ例もそんなにはないだろう。ご主人の発病以来、その言葉と毎日向き合わなければならなくなった作者の心中を思うと胸が痛む。ただ、この詩集は、そしてこの作品はその日々の辛さのみを詠ったものではない。張り詰めた時間の中に一瞬訪れたエアポケットのような一瞬の出来事。作者が思わず発した「私、まちがってませんよね。」を受けた運転者さんのひと言、「ええ、まちがってませんよ。」に、ピンと張っていた糸が切れてしまう。
その時なぜ泣いたか、なぜ泣き止まなかったか。「やさしい」ことばにほだされたとしても、それだけではない、ソレガドウシタと必死にこらえていた幾重もの思いが一度にあふれてしまったのだろう。それしか言えない。これ以上、私がわかったように書くのは許されない。この詩はそんな思いが押しつけがましくなく記してあって、読み手の心に染み入ってくる。
これは勉強になるなあ。あんまり天気がいいので、ヤッとばかりにスニーカーをはき、歩き始める。角に出会ったらその角を適当に曲がり、また曲がり、また曲がったら、知らない町が広がっている――そんな風景を思わせるそんな詩。
どうして「あのひと とは / わたしのことです」とタネ明かしをするんだろう。
「入っていなかった / ナマケモノを」なめているっていったい?
なぜ前半はひらがなだけの表記で、後半は漢字混じりなんだろ。
だいたいこの詩、何が言いたいの?
なんて、既製のつまようじでつつくと、パチンとはじけて何もなくなってしまう。だから遊ぶ。合理的な説明などいらない。ただいっしょに遊ぶ。ほら、そんなにムズカシイ顔しないで。既製の息を吐いて、ここの空気を吸ってみよう。で、どう?なにが見えた?
阿蘇豊(あそ・ゆたか)
1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『とほく とほい 知らない場所で』(土曜美術社出版販売、2016)
『シテ』『布』『ひょうたん』同人