台風21号と台風22号の合間に深呼吸して見えた詩、三つ
阿蘇豊
今日も朝から雨。台風は去ったのに、今度は秋雨前線か。これではハゼ釣りにも行けない。仕方ない。今日は蟄居して、積んである本をあたろうか。音楽はビル・エバンスのピアノ。飲み物は、もう、ココアの季節だな。そしてゆっくり迷宮の中に落ちていく…
そうか、我らがこうして息をつないでいられるのは、「忘れたことや 知らないことに守られて」いるからか。うーん、反語的発想だが、言われてみれば、わかるような気もするな。覚えていること、知っていることなんて、ほんの少しだからな。最近とみに忘れっぽくなっているし。などと、ひとりごちたのだった。その次の連、「あなたの内なる少年は/今も 水の上を歩けるだろうか」にも反応した。反応したということは、まだ「内なる少年」をかかえているからだろうか、そうに違いない。そう思いたい。いくつになっても「水の上を歩」きたいと念じていた自分がいたのだ、確かに。
試みに「あなた」という語を調べてみる。Webでは、「対等または目下の者に対して、丁寧に、または親しみをこめていう。」とある。そうだよねと思いつつ、この詩を読み返すと、「あなた」には、それだけじゃない、意味、あるいは使い方の広がりを持たせているように思えるのだ。例えば不特定多数を示す「あなた」、あるいは、よく知らない人を指す「あなた」というふうな…それから、どうして第1連の4行目のあなただけは、カギかっこがないのだろう。
「あなたが来るのを待っていたんです」と告げられ、「かすかに触れた少女の手の温かみが/自分の全身を駆けめぐった」のに、「目の前の「あなた」へ 橋がなかった」に至る流れもどこかミステリアスで、何度も読み返して楽しんだ。
わかりやすいいい詩を書くのはムズカシイと、このわかりやすいいい詩を読みながら思った。わかりやすい詩を書くのは勇気がいる。批判されやすいから、コムズカシイ方へ逃げたくなる。わかりやすい詩は、浅く透けて見えることもある。この詩はそうではない。例えば、第2連の「ひとびとの その不幸と荒廃の/ただ中をぬけて そのうしろに/今わたしが在ることの 幸運と後ろめたさ」というあたり、生まれ落ちた時代、環境の中で、今、一人の人として生きていることの複雑な思いを「幸運と後ろめたさ」という言葉で象徴的に表している。そして、そんな思いを抱えながら、イヤ、抱えているからこそ、過ぎた過去や見えない未来にとらわれない、「今」を見すえた「今が一番きれい」「今が一番 旬」という発見にたどり着く。その、呼吸をしている「今」をポジティブにとらえた姿勢に勇気づけられる。「今が一番 カッコイイ」とぼくも言いたくなる。
そう見ていくと、「きれい」と「キレイ」の使い分けにも味が出てくる気がする。「きれい」が従来の意味合いだとすると、「キレイ」のほうは、年月をくぐり抜けて内面からにじみ出てくるものが加わるのだろう。品格とか威厳とか落ち着きとか…だからだろうか、最終連の四行は、ゆったりした決意が立ちのぼって、すがすがしい。
阿蘇豊(あそ・ゆたか)
1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『とほく とほい 知らない場所で』(土曜美術社出版販売、2016)
『シテ』『布』『ひょうたん』同人