炎天下に届いた詩の果実を明け方の空気で冷やして読んだ詩、三つ
阿蘇豊
ああ、夏が終わる…というか、今年はきちんとした夏はあったのか。夏、から連想される夏らしい日は何日あったのだろう。日本海に波は騒ぎ、太陽ははしゃぎすぎたり、落ち込んだり、まともに季節を見せてくれなかった。ただ、西瓜は、西瓜だけは食った。親戚の農家から車に積めないぐらいもらい、知人に配り、それでも残って、毎日食った。最後に残ったヤツもそろそろ中身がアブなくなってきたので、今朝はミキサーにかけてジュースにした。どうしてか日本にない生スイカジュースで、今年の夏をなんとか〆た。
一読してふふふと笑いが洩れた。きっと、足の裏、舌、尻という日ごろ体の中で日陰者に甘んじているところに敬虔な朝の光を当てようとしている様子がコミカルに思い浮かべられてのふふふなのだろう。ぺろぺろっと、尻/尻込み、などの言葉づかいにもウイットが感じられ、楽しくなる。かっちりしたリズムに乗って、柔らかくことばが紡がれ、浄化された気分になる。おかげで心地よく一日が始められそうだ。
さわやかな朝から、一転して「毛虫」。毛虫が好きだという人、まあ、いないでしょうね。ましてや毛虫の詩を書こうと思う人なんて。だから、田中さんはえらい(上から目線でなく)。毛虫だって我々と同じ生命体、生まれたらいつか死ぬ、生きる目的はなに?わからない、など共通点はいろいろある。なのに、毛虫は「ゴールなど思ってもいないように / 昨日も明日もないように / 一心に今を疾走している」。対して、ヒトは人生に意味を見つけ出せなくて悩み、昨日の所業を悔やみ、明日を予想してうなだれる。学ぶものは毛虫からでも、というのですね。そうだね、取るに足らぬ虫、雑草、石ころ、あるいは欠けたコップ、色あせた複製画、なども、いっぺん目を閉じて10数えてから目をあけると、キラキラ身を震わせて訴えかけてくるかもしれない。
「オモロイ」と、浪花弁で、カタカナで言いたくなった。遊んでるなあ。楽しんでるなあ。その余裕(見せかけでも)、うらやましい。それに浪花弁の油のようななめらかさがさらに明るい色っぽさを添えている。なんて、言ってしまった。どないしょう。ん?しょうないやんか。
この詩を三回読むと、三回念仏を唱えたような気になって、無事にあの世に行けるような気がする。そう、生きてる間、死んだふり。ふりのつもりがいつの間に死んでるって、いいなあ。それにしても、どうにもならない死について、こんなのんびりうたった詩は初めて見るなあ。
阿蘇豊(あそ・ゆたか)
1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『とほく とほい 知らない場所で』(土曜美術社出版販売、2016)
『シテ』『布』『ひょうたん』同人