半日浜辺で竿を振った汐くさい指を立てて読んだ詩、みっつ
阿蘇豊
どうしたんだろう。今年の六月は、寒い。どこか肌寒い。情緒的な雨が落ちてくるわけでもなく、このところ日中は温度が上がるのだが、朝晩が少し冷え込むのだ。そのおかげで、なのかどうなのか、浜辺から投げてククッとくるあの、キスのあたりがない。風もなく、この波で、なんで来ないんだ、去年はここで、鱚という名の通り喜ばしてくれたじゃないか、とつぶやいてみても、応えてくれる気配はまだない。
こういう詩はなかなか男には書けない。我が身の中で10ヶ月育ち、やがて赤ん坊を産み落とす女性であればこそ、注ぐことができるあたたかい、細かな視線を感じる。よく観察してるな、そう思いながら、「笑い」の3連、「ことば」の4連などではけっこう辛辣な部分も見えて、それがこの詩を単調な赤ちゃん賛歌に終わらせず、味わい深いものにさせている。これから始まる人生はそれほどストレートなものではないんだよと、諭され、処世術を教えられてるようで、つい、私も「ハイ」と言って背筋を伸ばしてしまいそうになった。最終連も同様にピリリと締められていて、いっそ爽快。落語の小話を聞いているようだ。
そうだ、思いだした、こんな詩。
この詩に色あせない魅力を感じるのだが、なぜだろう。わかりやすい、かわいい、ユーモラス…そうだね、加えてテンポのよさかな。自分にも書けそうだと思って書いてみたこともあったっけ。けれどこの詩もちょっと意地悪なおじさんの登場なくては、ただ可愛いというばかりの薄っぺらな詩になっただろう。それぐらいわかる。そしてそのおじさんを見つけることこそが難しいんだってことも。
第2連の「振り向くことで / 壊れてしまうものがある」、ここ、いいな。カッコイイ。読み手が自分のこととしてあれこれ想像することができる。他はけっこう具体的な情景なんだけど、この部分や次の連は読み手の感性を誘い込み、リアルに反応させる力を感じる。
それにしても、第三連の「輝き」とは何だろう。奥さんが発するそれか、第二連の微妙な状況が生む輝きか。はっきりわからないが、わからなくていい。謎めいたまま、輝いている、そこがいい。
この詩のように日常のささいな出来事が、切り口の角度によって輝くときがある。それをすばやく捉えることができ、捉えた不定形のものを、ことばという形に焼きつけることができれば…。そんな届かぬ思いを、「いつもより早い帰り道 / 八百屋の前」で、私もつい反芻してしまった。
阿蘇豊(あそ・ゆたか)
1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『とほく とほい 知らない場所で』(土曜美術社出版販売、2016)
『シテ』『布』『ひょうたん』同人