松林の間からもれる五月の茜色の陽を浴びながら読んだ詩、三つ
阿蘇豊
山菜の季節だ。フキノトウ、コゴミから始まって、タラの芽、ワラビが出始めた。と思ったら、朝どりの孟宗をどさっともらい、それをゆでている間に「ゴメンクダサイ」とまたもらい、次の日の朝、玄関を開けたらウドといっしょに土のついている孟宗が置いてあった。今の時期、食卓が山菜であふれる。春の香り満載。うれしいったらない。
初めの「八月が/「ゴクン」と / コップ一杯の水を / 一気に飲み干し」で、密かに拍手した。歯切れのいい出だしだ。続く緑の描写も印象的だ。緑が一斉に立ち上がり、大きく深呼吸するんだよ。そう、うちの庭の今が盛りの水仙を見ていると、そんな植物の心意気がよくわかる。
夕立が通りすぎた後の「遠景」。何気なく通り過ぎたけど、「遠景」があるとないでは、情景の深さが違って見える。私にとっても新鮮な発見だ。
短い詩だけど、八月から始まって、このパースペクティブの広がりよう、確かに爽やかだ。遠くに虹のにおいもするようだ。
「うそをついちゃいけないよ」と言われ続けた身からすると、絵本にこんな詩を書いていいのかな、って危惧しながら、その実楽しく遊んだ。「書いたうその数だけ、たくさんの真実が見えてきます」なんて、子供がそのまま信じたら、どうするの?なんて心配したけど、そんな必要はないのかもしれない。今の子どもは存外にしたたかで、世慣れているだろうから。それに、真実より、うそのほうが心理的に奥深く入り組んでいて、より楽しめそうだし。
最後のひと言「うそ」が効いている。その前のいかにも真実らしいうそっぱちを、ぽつん
と置いた「うそ」の二文字が暴いて見せている。お見事!
詩を書こうなんて気負いが見えない一編だなあ。親しい誰かと語らっているような自然で素直な心のありようをそのまま文字化した、というふうだ。読んでいると心がじっくり潤ってくる。どうしてなのかわからない。川を流れる大量の水、そのイメージのせい?
人を説得しようとしないことばたちに安心する。ただ川が好きだと言っている。魅惑的な肉体の女、なんて西部劇風に言ったりして。その潔さ、飾らなさがしっくりくるのだ。
「三十五だったこともあるんだよと言って / 誰か信じてくれるだろうか?」なんて、かわいい、どこかおかしいフレーズだ。小さな子供の耳に囁きかけているようで、妙に印象に残る。ラスト2行の「~なんてね」というリフレインによる切り上げ方も軽妙な味を醸し出していて、やっぱり村上春樹といったところか、なんてね。
阿蘇豊(あそ・ゆたか)
1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『とほく とほい 知らない場所で』(土曜美術社出版販売、2016)
『シテ』『布』『ひょうたん』同人