リオの興奮冷めやらぬうちに出会った詩、三つ
阿蘇豊
8月が過ぎ、静けさが戻った。2016年の8月はとりわけうるさかった。耳の中で出るに出られない羽虫が、ブィーンブィーンと飛んでいる気がした。連日連夜続いたあの暑さ、毎年のことではあるが、お盆前後のどこか落ち着かない気分、そしてあの、リオ・オリンピック!興奮冷めやらぬ17日間の最後まで沸騰した夏。ドラマを見ているような、8月が終わった。
知らない方からの詩誌、詩集をいただくのは楽しい。最近は楽しいと思えるようになった。中を開いて、とりあえず10分ぐらい目を落として当たりをつけておく。その時に読み通すことは、まずない。なぜだろう。おいしいものを最後まで残しておいた幼少期のなごりだろうか。今回は次のような作品に出会った。
「わたしの不在が通りすぎる」、このフレーズにピリッと反応した。イイナ。日常の具体からヒョイと異次元に迷い込んだような心もち。いるはずのところにいずに、いないはずのところにいる、「誰も私を見ない」。あたかも透明人間になったような気分。
日常をはみだして、あらゆるものに追い抜かれながらぶらぶら歩く目がとらえたのは、アスファルトの割れ目のガラス片であり、冬の蜜柑のみずみずしさであり、ねじ曲がった標識の傷あと、傾きかけたポスターというふうな、まわりに実在する、今まで気にも留めなかったあれこれのディテールだ。最後の部分、「私の不在を」、「わたしは見る」ことを通して、新たな自分と物事との実在を確かめることができたという安堵の息のように聞こえる。
最近読んで、フフフともらい笑い(そんな笑いがあるか?)した詩を紹介したい。
実際の出来事をそのまま記録しながら、どうにも口当たりのいい、口元がゆるんでしまう一篇に仕立ててある。へんに力を入れず、普通のことばで淡々と語っているのも好ましい。
「ひくみへひくみへ」と水は流れて、思いがけないモノガタリを生む。お二人のなれそめ(?)をこんな形で知るのもおもしろい。
最近は、読んで心が明るくなるような、楽しい詩が少なくなった、などといえるほど詩を読んでいるわけではないが、自分の感覚として、そう言いたい気がしている。この詩に出会って、久しぶりにほっとした。
思い出した。忘れかけていた一編の詩。忘れていなかった。
出だしの一行がいいですね。「忘れかけていた男に出会う」。これで流れがあらかたわかる。忘れたいのに忘れられない、やっと忘れかけた男にひょいと出会ったらどうなるか。「お茶に誘うわたし / よろこんでついてくる男」、どっちもどっちの腹の探り合い。「飛び切りおいしいコーヒー」に見える相手の女に対する競争心、わたしの見栄が見え隠れする。ここでのこのコーヒーはわたしが「ごちそう」しなければならないのだろうな。
一行一行のことばに、なつかしさ、恋しさ、うれしさ、悔しさ、嫉妬、反感、駆け引きなどの複雑な思いが絡んでいるように感じる。実は、私はここ3年ほど酒田のラジオ局でDJのパーソナリティーをやっていて、70年代ぐらいのJポップスや歌謡曲の歌詞について語ったりしている。そんなノリで味わい、楽しんだ。忘れかけた女に出会ったような、そんな一篇。
阿蘇豊(あそ・ゆたか)
1950年生 山形県酒田市出身
詩集
『窓がほんの少しあいていて』(ふらんす堂、1996年)
『ア』(開扇堂、2004年) 他
『シテ』『布』『ひょうたん』同人